かめかめ・かめラ
石巻ボランティア
(宮城県石巻市)
(2011/4/8-10)(記 2011/5/14)
2011年3月11日、大震災に見舞われた東日本地域。特に岩手、宮城、福島各県の海岸部は大地震よりも大津波の影響で被害が甚大でした。何か支援してあげたい、被災者のお役に立ちたいという気持ちが湧いてくるのは、日本人として極々自然なことなのでしょう。しかし、仕事に穴をあけるわけにもいきません。できることは義援金の寄付でしょうか。確かに今回は人生でこれほどまでに寄付をしたことがないほど、いろいろなところに寄付しました。それでも何だかすっきりとしませんでした。
今までも関わりのあったキャンナス(http://www.nurse.gr.jp)で、被災地支援のボランティア活動を継続的に行っていることを知った時ですら、自分が被災地へ行くとは思っていませんでした。しかし金曜日の夜にこちらを出て、日曜日の夜に戻ってくることが可能であると知ったときに、仕事に影響を及ぼさずに行くことができるということで志願しました。当初は気仙沼に行く予定でしたが、状況が変わるにつれ、気仙沼か南三陸か石巻の三択になってきました。石巻には大学時代の友人がいるので会ってみたいとは思いましたが、個人として友人に会いに行くのではなく、キャンナスの一員としての支援活動に参加するわけですから、場所はどこでもいいのです。一番環境の悪いところに行きたいと申し出たところ、石巻に行くことが決まりました。
4月8日(金)19時過ぎに仕事が終わりました。長年仕事でお世話になった人の退職パーティがあったのですが、義理を欠いてお断りしました。一度自宅に帰り着替えてから20時に伊勢原駅に到着し、小田急線に乗り相模大野経由で21時過ぎに藤沢駅に到着しました。前日の7日(木)夜に大きな余震がありましたが、悪運の強い私は、私が被災地に行っている間は余震はこないと、勝手に思い込んでいました。
環境が悪いところに行くというのであらゆることを想定して、久しぶりにこんなバックパッキングをしてみました。後で知ったのですが荷物は小さめがいいようですね。ボランティア登録もすることになっていたようですが、これも後で知りました。忙しいのは言い訳にはなりませんが、とにかく被災地に行くことで頭がいっぱいになっていたようです。
(暗いかな)
藤沢駅から歩いて5分ほどのキャンナス本部にはすでに多くの人が集まっていました。ここでキャンナスの統一されたウインドブレーカーを渡され、それに名前を書いて着込むと、初めて会った人が多いのに、なぜか一体感が出てきました。今日は、マイクロバスと車2台の合計3台で出発するようです。物資の積み込みと、注意事項の確認などをしていると、出発時刻の22時がすぐにやってきました。
途中の菅生(すごう)サービスエリアでトイレを使いましたが、断水していました。昨日の余震の影響でしょうか。東北自動車道も橋脚の付け根の部分で段差ができているので、かなりお尻に衝撃が走ります。私はたまたまタイヤの上の座席だったので直撃を受けていたことになります。
次に休憩した吾妻サービスエリアでガソリンを補給しましたが、深夜にもかかわらず車列を作って給油順番を待っています。午前4時20分のことでした。
9日(土)の午前6時過ぎに石巻に着きました。石巻市立湊中学校へ向かいましたが、途中の道路は冠水しています。地盤沈下により満潮時には海水が入り込んでいるようです。そして街中はまだまだがれきで溢れています。
すでに被災してから一ヶ月が経つのに、湊中学校は写真のような状況です。何とも言えない、“現実離れした現実”がそこにはありました。
校舎の時計も震災時の2時46分で止まっています。こんな時には時計の正確さが悲しみを深くします。テレビや新聞で被災地の様子はわかっているつもりでしたが、こうして実際に来てみると、臭いがかなり鼻につくことに気がつきます。ドブの中のような臭いが充満しているのです。そして停電・断水であり、下水もうまく機能していません。トイレは男子小用は何とか可能ですが、それ以外は大変です。段ボールに、下からビニール袋、新聞紙、紙おむつを敷き、そこに排泄してから廃棄するのです。手を洗うこともままなりません。
早速、私の友人(Mi医師)に電話したところ、忙しいのにわざわざ湊中学校に来てくれました。久しぶりの再会の喜びに触れる暇もなく短い会話を交わしました。そしてMi医師のところで働くスタッフ二人と、私とMo医師で渡波(わたのは)中学校に行きました。渡波中学校は湊中学校より約3km東になり、より海の近くです。避難者の生活する避難所というものに初めて足を踏み入れ、被災者の健康状態をチェックしました。環境の影響なのか、咳が止まらないという訴えが多いようでした。
お昼には湊中学校に戻り、しばしの休息です。昼食は何を食べたが記憶がはっきりしませんが、おそらく菓子パンを食べたと思います。写真は湊中学校の3階からの眺めです。
【地図1】 (1)石巻市立渡波保育所、(2)JAわたのは、(3)船で塞がれた道路、(4)祝田一区集会所、(5)サン・ファン・バウティスタパーク&宮城県慶長使節船ミュージアム、(6)小竹浜公民館、(7)峰耕寺、(8)蛤(はまぐり)浜避難所
【地図2】 (1)石巻市立渡波保育所、(2)JAわたのは
午後からはSさんの運転で、私とMo医師、そしてK看護師・M看護師の5人で、渡波地区や牡鹿半島の付け根の地区の小さな避難所を回りました。石巻市立渡波保育所には簡易お風呂ができていて我々の需要はないようでした。近くの公民館の避難所も物資や人が多く立ち寄りませんでした。このように比較的恵まれている避難所もあるのでした。
JAいしのまき渡波では、自家用車乗車中に津波で流され、もうだめだと覚悟はしたが、どこかに車がひっかかり助けられたというおばあちゃんから臨場感のあふれる被災時の状況を伺うことができました。
しかし、周囲の被害の状況からみると亡くなられた人や行方不明の人が多いことが容易に想像できました。
【地図3】(3)船で塞がれた道路、(4)祝田一区集会所、(5)サン・ファン・バウティスタパーク&宮城県慶長使節船ミュージアム
万石浦(まんごくうら)の入り口の橋を渡り、牡鹿(おじか)半島の付け根に入りました。海沿いの道を行くと漁船が道を塞いでいました。その先には行くことができません。漁船としては小さめだとは思いますが、車に比べるといかにも大きくワンボックスタイプのワゴン車の5台分はあることでしょう。これを移動させるには大きめの重機が必要でしょうからまだ撤去できないのだと思われます。
【地図4】(3)船で塞がれた道路、(4)祝田一区集会所
漁船の手前の道を左(山側)に入っていきます。これはSさんが「集会所」という看板を見つけたためです。ここに限らずSさんの嗅覚(?)の鋭さには驚きました。想像通りに祝田一区集会所に30人くらいの避難民が生活していました。90歳代の老人は簡易ベッドに寝起きし、他の人々は直接畳に寝泊まりしているようです。コンパクトにまとまった避難所です。全員が顔見知りなので和気あいあいに過ごしているように感じました。
元の道に引き返し、脇道にそれてトンネルをくぐるとテーマパークが見えてきました。サン・ファン・バウティスタパークです。宮城県慶長使節船ミュージアムも併設されています。もちろんテーマパーク自体は閉鎖されていますが、3月末までは避難所として利用されていたようです。ミュージアムに展示されている船はありましたが、周囲はがれきで埋め尽くされ、見学エリアの大きな窓ガラスはすべて割れていました。
ここの屋内駐車場のフロア全体に毛布の入った段ボール箱がところ狭しと積み込まれています。一箱10枚入りですから、合計で何万枚になることでしょうか。おそらく避難所には毛布は十分にあるのでしょう。保管スペースの確保や管理することが被災地の新たな負担になってしまいます。支援物資の流通の難しさを感じました。
サン・ファン・バウティスタパークの屋外駐車場から、輝實山洞源院が見えますが、そこにも避難民がいます。
さらに海沿いの細くクネクネと曲がった道を進みます。地震により道の半分が滑落している箇所もあり被害の大きさがこんなところでも体感できます。
【地図5】 (6)小竹浜公民館、(7)峰耕寺、(8)蛤(はまぐり)浜避難所
やがて小竹浜の集落に着きました。かなりの被害を受けているようです。避難所となっている公民館は、以前は小学校の分校があった場所で高台にあります。避難民は30数人だそうですが、ここは普段から集落の人数分の毛布と、100食分の食事を用意していたという周到さでした。そして定期的な避難訓練をしていたために全員が無事に避難できているようでした。また沢の水が利用可能であり、飲用や調理用には煮沸してから使用しているものの断水とは雲泥の差です。炊き出しようのお釜やかまども予め用意されていました。
日赤の医療班が週に1回、定期的に訪問しているようです。当初は週2回でしたが1回に減らしたということは、医療のニーズは減ってきたと判断しているのでしょう。
【地図6】 (7)峰耕寺、(8)蛤(はまぐり)浜避難所
各避難所で「この近くで避難所はどこか?」と聞くと、隣の集落の避難所を教えてくれます。普段から隣の集落の避難所を知っているのか、あるいはこのような情報交換は十分にできているのかはわかりませんが、地域のつながりを感じます。
小竹浜を出てしばらく行くと、峰耕寺というお寺がありそこにも避難者がいましたが、十分に足りているようでした。
次は蛤(はまぐり)浜です。ここは車で避難所まで行くことができません。わずか100mくらいですが、写真のように歩いて行かなければなりません。こんなところにも被災者が避難しているのです。
新しい県道2号線に出て、風越トンネルをくぐると万石浦が正面に見えてきます。5年前(2006年4月)に石巻線の列車に乗り、万石浦に沿って女川駅まで行った時のことが思い出されました。
湊中学校へ戻り、夕食を食べたはずですが、何を食べたか思い出しません。おそらくパンかおにぎりと温かいスープをいただいたと思います。
食後のミーティングの時です、余震が来たのは。下から突き上げるような縦揺れに続いて横揺れが・・・・・ 幸い震度は4でした(最大震度は宮城県栗原市の震度5弱)が、被災地での地震ということで神奈川で体感する揺れと違うような変な感覚でした。
そして19時頃になり、Sさんの運転で石巻赤十字病院へ向かいます。キャンナスからはすでにNさんとMさんが18時からの会議に出席しています。その会議の後で、翌日(4月10日)に予定されている、自宅避難者の健康(要医療・要介護)調査の打合せがあるのです。いつくかのグループに分かれて地域を決めて一斉に調査するので、通称“ローラー作戦”と呼んでいます。この必要性は認識していたのですが、調整に手間取ったようで、明日が開始日ということでした。この打合せには公益社団法人日本医療社会福祉協会(MSWの団体)のS会長、Sさん、Tさんが東京から、そしてMさんが高知から参加していました。意外な場所での再会にビックリです。
気仙沼や南三陸の海沿いの地域は津波の威力が物凄くて、鉄筋コンクリート以外の建造物はすべてなくなっているのですが、石巻は津波の威力とともに、浸水の被害も大きい地区があるのです。つまり木造2階建ての建物は1階が使えなくても2階が使えるため、自宅で避難生活を続けている被災者も多いのです。ですから避難所だけへの対応では全容がわからず“ローラー作戦”の必要性があるのです。
打合せが終わって湊中学校に帰ったのが21時頃でしたが、宿泊場所になっている音楽室に行くとすでに多くの人の寝息が聞こえます。マイクロバスで夜間の移動でしたから睡眠不足だったのでしょう。実は私もほとんど眠れなかったので気持ちはよくわかります。翌日は7時に石巻専修大学に集合なので早めに夢の中へ移動することにします。
【地図7】 (9)石巻専修大学、(10)水明南地区(赤線は我々の調査地区)
翌朝は快晴でした。Mo医師、K看護師、M看護師と私の四人で石巻専修大学に向かいます。ここはボランティアの拠点になっているらしく多くのテントが並んでいます。地区割りが発表され、我々は水明南地区の一区画を担当することになりました。調査は夕方まで続けられますが、我々は昼過ぎにこちらを出発しないといけないので、午前中だけの調査になります。
Mo医師とM看護師、私とK看護師がペアを組み、2組で調査を開始しました。水明南地区は断水と停電から復旧したものの、4月7日 の大きな余震で再び断水と停電になり、ライフラインの復旧が切実な問題となっていました。健常者は、自衛隊の船や図書館での自衛隊が用意する風呂に入浴することが可能ですが、要介護者・要支援者は移動の手助けがないと外出ができません。1軒以外はすべて1階が被災し、2階で生活していました。しかし要介護者で2階への行き来が不自由な方はブルーシートを敷いて1階で生活していました。そして1か月間もお風呂に入っていない高齢女性もいました。また要介護認定を2月に申請しながら認定結果を知らされていない高齢者もいます。まだまだ震災は現在進行形なのです。
住宅地の指で指している高さまで浸水した跡があります。
ローラー作戦が終了し、石巻専修大学に戻ります。所定の資料を本部に渡してから湊中学に戻ります。昼食の時間になっており、炊き出しでラーメンが食べられるということでしたが、被災者の分が足りなくなると困るので、カップヌードルをいただきました。
14時頃に湊中学校を出て中央公民館で仲間と合流します。なんとMi医師もかけつけてくれました。帰りは、東北自動車道を栃木都賀ジャンクションから北関東自動車道を経て友部ジャンクションから常磐自動車道に入り、サービスエリアで夕食を食べながら帰ってきました。場所は忘れましたが、パーキングエリアでコンビニ(セブンイレブン)が明るく輝いていた時にはみんなで感激しました。私は横浜駅近くで降ろしてもらい、相模鉄道と小田急線を乗り継いで伊勢原まで戻ってきました。
【石巻市内の様子】
市内の地区によって大きな差があります。蛇田(へびた)地区ではスーパーの営業が再開し、居酒屋も営業し始めたようです。しかし、海に近く被害の大きかった地区では、未だに電気・水がありません。私が宿泊した湊中学校(避難者57人)には、さらに下水も壊れていました。衛生環境の劣悪であり、今後の健康状態が気になります。実際に南三陸地区にはノロウイルスが流行しているという情報が入ってきました。
そして海に近い地区は、地盤沈下の影響か、満潮時には道路が冠水する箇所もあります。もはや「陸」ではなく「海」なのです。そのためヘドロのようなものがどこでもあり、ドブのにおいが漂っています。ドブの中で生活している感覚です。
石巻市は2005年4月に近隣六町と合併して人口が16万人ほどになりましたが、そのために広域(牡鹿半島の先端まで)になり、情報が行き渡らない可能性が高いように思います。震災後1か月も経っているのですが、まだまだといった感じです。長期にわたる支援が必要になることでしょう。
湊中学付近の女川街道沿いのお墓
湊中学付近の前
湊中学付近の女川街道沿い
湊中学付近の女川街道沿いの神社
石巻港への引き込み線
石巻市湊中学校付近(女川街道)20110409
石巻市湊中学校付近(2)(女川街道)20110409
石巻市渡波地区20110409
石巻市伊原津付近(女川街道)20110409