かめかめ・かめラ
大山道柏尾道+抜け道
(神奈川県)
(2016/3/21)(記 2017/2/8)

柏尾道+抜け道1:石倉橋から下る


 2016年3月21日、次男と一緒に石倉橋から柏尾道(戸田道・青山道)とその抜け道をちょこっと歩きました。


 まずは大山ケーブル行きのバスで石倉橋バス停で下車します。


石倉橋付近は新たな道路工事で大幅に変わってしまう可能性があるので、そのために優先して歩いておこうと思ったわけです。


この角を左折します。地図の赤矢印の場所です。


 新たに区画整理された宅地を進みます。


 すると地図の青矢印の場所に小さな石像がありました。刻まれた文字は残念ながら読み取れません。
柏尾道+抜け道2:上粕屋神社


 本来の柏尾道(青山道)は、地図の黒実線のルートですが、ちょっと裏道を通ってみましょう。赤線のルートです。


 旧道らしいカーブで少しづつ下っていきます。


 やがて上粕屋神社に着きました。


 説明書きがありました。

 「上粕屋神社由緒 本神社の勧請年月日は詳らかでないが大同弘仁の頃、近江の国の日吉神を当初に移し勧請したと伝える。又、風土記によれば天平年中に僧良弁の勧請なりと言う。元禄四年幸末社殿を再建し、山王権現と称した。徳川幕府朱印高壱石五斗であった。明治二年六月、日枝神社と改称し、当時の例大祭は三月二日で、競馬神事神楽を奉納、六月二十二日と十二月二日には年の市を執行した。
 明治六年葵酉七月、字、和田内鎮座の熊野神社(朱印高弐石)と字、石倉上鎮座の白山社を合祀し、上粕屋神社と改称した。さらに、昭和三十九年四月、字、峰岸鎮座御嶽神社を、昭和四十一年十月、字、秋山鎮座の五霊神社を合祀して現在に至っている。
     平成二十七年五月吉日」


 境内には伊勢神宮参拝記念の石碑があり、


 さらに大きな鐘もありました。


 こちらが本殿です。

 
 道路の反対側には推定樹齢600余年の大ケヤキが二本ありました。歴史を感じます。
柏尾道+抜け道3:七人塚


 地図には「七つ塚」と書いてありますが「七人塚」の誤りです。


七人塚の手前に山王原公民館がありました。


 ここが七人塚です。白いプレートに七人塚と書いてあるのですが、薄くて読み取りにくくなっています。


 こちらははっきりしています。


 説明書きがありました。
「七人塚  

 江戸城の築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌 謀叛心あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣七名の墓で「七人塚」と伝えられています。この塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に七つ並んでいましたが、明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものといわれ、今でも七人塚と呼ばれています。」


 こちらの石碑にはどうも「太田道灌・・・」と書いてあるようです。


 この一番上の文字は「道」に見えるので、「道灌・・・」とあるのかなぁ。
柏尾道+抜け道4:道灌塚を過ぎて


 地図の赤線を進みます。


 太田道灌の墓が見えました。そこには寄らずに、左折します。


 下り坂です。


 ここ(地図の赤矢印)を右折します。


 さらに進みます。


 麻生酒店がありました。営業しているのでしょうか?


 こちらは市光工業の大山寮です。
柏尾道+抜け道5:三所石橋造立供養塔


 地図の赤実線から黒実線に合流します。


 地図の赤矢印の角に三所石橋造立供養塔がありました。


 説明書きがありました。

 「大山道

 この大山道は、江戸青山から、また東海道戸塚方面から大山詣りの人が歩いた参詣道で、土地の人は「戸田道・青山道」と呼んでいました。道に沿って流れる水路は大山を源流とする鈴川から引水した灌漑用水で「千石堰用水路」と呼ばれて、昔は小魚が泳ぎホタルが飛び交っていたといいます。この三所石橋造立供養塔は、ここの場所に作られたと思われる三ヶ所の橋を供養するために、洞昌院住職と村人達によって享和二年(1820)に建てられました。
     平成二十七年三月吉日」


石倉方面と厚木方面を結ぶ大山道です。


 千石堰用水路に沿った大山道をさらに歩いていきます。


 東名高速の側道の手前(青矢印)にはこのように「大山街道」と書いたものがありました。


 東名高速道路が見えてきました。
柏尾道+抜け道6:峰岸


 黒実線のルートを西から東へ歩きます。


 東名高速道路をアンダーパスして、地図の青矢印の場所を右折します。


 旧道らしい微妙なカーブが続きます。


 交差していますが、ここを直進します。地図の緑矢印の場所です。


 県営伊勢原峰岸団地の中を通ります。


 左からの道と合流します。茶矢印の場所です。


 その角には大山街道を示す矢印があります。東から大山に向かって歩く人から見えるような位置です。


 地図の赤矢印の峰岸団地入口交差点です。
柏尾道+抜け道7:三軒茶屋〜市米橋


 さらに東へ進みます。


 峰岸団地入口交差点から少しだけ入った赤矢印の場所に三軒茶屋があったという記載がありました。


 二股に分かれている小道を左へ。


 大きな掲示板がある簡易休憩所です。地図の青矢印の場所です。

 
 ベンチの背もたれには「かるい槍よりおもいやり」や「あんころ餅よりこころもち」とベタなおやじギャグが癒してくれます。


 振り返ると富士山がこんにちは(笑)。


 しばらく歩くと正面にヤマト運輸の営業所が見えてきました。


 ここにも大山街道の案内がありました。


 市米橋バス停です。


 市米橋交差点のちょっと手前に旧道らしき脇道がありました。


 すぐに市米橋にぶつかります。
柏尾道+抜け道8:咳止地蔵尊


 ヤマト運輸の右側の咳止地蔵です。


 咳止地蔵尊です。


 石像がいくつかあります。


 咳止地蔵尊の由来が書いてありました。

 「渋田川に架せられた「せきど橋」のたもとにある咳止地蔵は古来から痰咳平癒の守護仏として崇められ「せきどめ地蔵」の名で広く霊験を知られた。現尊像は享保八年(1723年)の再建になるもので、再々の補修がなされている。
 地蔵前の古道は相模川の戸田の渡しから大山に通じる「戸田道」で糟屋宿にも程近く大山詣りの道者たちの信仰をも得ていた。現今東京、川崎、立川方面に信者のあるのもそのためで、堂のそばには大山道の道標ものこされている。
 背後の富士山(ふじやま)は八王子道にも通じるので昔は繭の市も立った。道路や交通機関の変動で戸田道は往古の面影もないが地元人士の賛同を得て保存会を結成、堂字の修理をなし霊蹟の再興を図るものである。
     昭和五十年三月二日 弥杉咳止地蔵保存会」
柏尾道+抜け道9:ふじやま公園


 咳止地蔵からは「抜け道」と称しているルートを歩きます。


 咳止地蔵の裏を川沿いに北上します。


 すると「発泡注意!!! この付近は人家などあり 注意!」と恐ろしい標識がありました。発泡ですので、四方八方に注意が必要です(笑)


 赤矢印の場所を右折します。


 家々に囲まれた細い道を熱いていると、突き当ります。地図の青矢印の場所です。ここを左折します。


 細い道を進んでいきます。


 ここは直進します。地図の緑矢印の場所です。


 そしてここを左に登ると「市民の森 ふじやま公園」ですが、今日はまっすぐ進みます。


 地図の茶矢印の場所まで来ました。 
柏尾道+抜け道10:道標


 地図の赤丸の道標の場所です。


 右側に道標、左側にはお地蔵さんや小さな石像が並んでいます。


 こちらが小さな石像たちです。


 道標です。読み取りにくいですが、「東あつぎ」と書いてあるのでしょうか。


 こちらは「西大山道」でしょうか。
柏尾道+抜け道11:新東名工事


 さらに東に進みます。青い二本線は新東名(第二東名)高速道路の未開通区間(工事中)です。


 地図の赤丸のグランドと書いてある場所です。グランドでしたが、現在は東海大学病院の駐車場として利用されています。その向こう側には新東名高速道路の工事が着々と進んでいます。したがってこの地図とは少し変わっています。


 地図の矢印の場所です。工事のために昔の道が変化しています。


 地図の赤四角の道標の場所です。道標はなくなったか、どこかに移されてしまっています。


 途中に新しい道祖神がありました。

「道祖神と櫻

 道祖神は寒の神とも呼び、高森村(1586年大山領、中郡高森郷と記録)の南西の端に位置し集落の生活と旅の安全を守る神・子供と親しい神ともいわれ、1700年代にこの土地に祀られたと思われる。近くの道路は北に向かって小野道とし東より荻野道・藤太道と交差し西の粟窪に通じる大山・日向の裏街道として古くから利用された。
 この道祖神の近くに大きな櫻の木と茶店(櫻屋)があったと伝えられたことから、近くの歌川にはその名の通り櫻橋(1930年)と当時名付けられ、現在の橋は三代目として成瀬第二特定土地区画整理と歌川の拡幅により西側に移設された。
 細野氏の桜の植樹と共にこの事業が完成したのでその記念として由来を記す。
       2008年6月吉日           細野 記」


 地図の赤矢印二本の場所まで来ました。

 今日はここまでにします。