かめかめ・かめラ
大山道矢崎道
(神奈川県)
(2016/1/10)

【2 中原〜伊勢原駅】

(2016/1/10)(記 2016/10/27)


矢崎道21:谷川橋跡

 
地図の赤丸印の谷川橋跡です。

 
路地は暗渠になっている上に、車が入れないようになっています。暗渠だと荷重に堪えられないためにこのように車が入れない暗渠は多いです。

 
谷川橋跡です。

 
説明がありました。

「谷川と谷川橋の跡   現在のこの道は、かつて谷川(やがわ)といった排水路だった。谷川は谷川堀ともいい、平塚の沖積地を東西に列する平塚砂丘のうち、第二砂丘列(日枝神社境内・伊勢山・大塚山等の標高12米から17米の丘)の南側の低列地にある字谷川の舟窪の凹地の池から発源して、砂丘低列の畑地の排水を集め西流し、先行流が渋田川に合した。現在は度々の改修によりその全容を失い、ついに道路敷となり消滅した。この谷川は、明治八年の中原上宿村誌によると、幅平均二間(約三・六米)、長さ千百十五間(約二千七米)、深さ最も深き処一丈(約三米)、浅き処四尺(約一・二米)とある。またこの谷川には中原往来の石造の谷川橋が架けられていた。村誌には文政八年(一八二五)に再設とあるから江戸時代からあったと思われる。谷川が昔単なる排水路でないことは、諸文献などから近世初頭の関東鷹野御殿の一つである中原御殿と中原代官陣屋に、深い係わりあいがあることが散見される。それは谷川にかつて水門が設けられ、上流の舟窪の池の余水を畑地の排水を貯水して、中原御殿の空濠引水と代官陣屋・屋敷堀用水を供給したが、後年中原御殿引き払い、そして中原代官陣屋廃止により谷川よりの堀水は必要はなくなり、水門は棄却され谷川は再び低列畑地の排水路と化して現在に到り昔日の面影を失ったのである。   平成十三年三月吉祥日  中原地区町内会(自治会)連合会記」

矢崎道22:一里塚跡

 
地図の(28)を右折して一里塚跡へ向かいます。 

 
中原上宿バス停です。

 
中原上宿交差点を右折します。

 
しばらく行くと右側に中原街道一里塚跡がありました。

 
側面には「中原街道は別名「御酢街道」とも呼ばれ、成瀬酢を江戸まで運ぶこの場所の両側に一里塚はありました。」と書かれています。

 
向かい側の家の門のところに写真のような表札がありました。「中郡大野村中原上宿391番地」と書いてあります。 


明治43年12月


明治44年2月

調べてみると、明治44年2月11日に大野村(地図の青塗りの自治体)から大野町(地図の緑塗りの自治体)になっていますので、明治44年以前の表札だったことがわかります。

矢崎道23:日枝神社1

 
地図(28)の中原上宿交差点まで戻り、(29)の日枝神社へ向かいます。

 
大きな石碑に日枝神社と書かれています。

 
その先には鳥居があります。

 
鳥居の先の左側には旧鳥居遺跡がありました。説明板には「旧鳥居遺跡  老朽化により余儀なく解体されました旧鳥居は明和七年(1770年)建てられ二百年余の星霜を頭に戴く歴史ある鳥居でした。日枝神社としては前述の意を永く後世に遺し伝えるため保存することとしました。・・・・・・日枝神社」と書いてありました。昔はこの鳥居があったのですね。

 
その隣には忠魂碑がありました。

 
これが本殿です。

矢崎道24:日枝神社2

 
地図の再掲です。

 
本殿向かって左側には天満宮がありました。

 
そしてその奥には道標がありました。「庚申供養塔 大山道」と読めます。

 
道標の向かって左横には「左ステーション道」と書かれています。

 
道標の向かって右横には「右 ひらつか 大いそ」でしょうか? ちょっと薄いので読みづらいです。

 
庚申供養塔の説明です。「この庚申供養塔は、平塚市中原一丁目十七番(旧平塚市中原下宿169番地)の一角にあったものですが、昭和二十六年から始まった旧大野町土地改良区事業の一環として大山道(通称、豊田道)の一部(平塚市江南高校東側道路と平塚〜伊勢原旧県道の現在のT字路をさらに北へ直進し、慈眼寺の東角へ向かう道路の内、約四十メートル)が整理消滅したためここ日枝神社境内に移されたものです。この塔の正面から左側に「平塚ステーション道」と刻まれていますのは、明治二十年に東海道本線平塚駅が開設されて駅に直接通じる道が整備され、それを記念して設置されたものです。そしてこの塔は、いろいろなところで紹介されていますが、現在ではかなり表面が剥落して昔の面影を失いつつあり、これを元の位置周辺に戻すには崩壊の恐れがありますので、この地に安置しています。平成十九年(2007年)十一月」と書いてあります。

矢崎道25:日枝神社3

 
地図の再々掲です。

 
本殿の向かって右側の壁には徳川家康の鷹狩りの絵があります。左上には「家康公は江戸と駿府の途次★★中原御殿に逗留し鷹狩りに興じた」と書いてあります。

 
その横には徳川家康の肖像画があります。

 
そしてその奥には東照大権現が祀ってあります。

矢崎道26:日枝神社4

 
地図の再々々掲です。

 
大きな楠がありました。「平塚市指定保全樹木 くすのき 指定第四・五号 昭和五十一年七月一日 平塚市」と書いてあります。

 
下から見上げると、こんな大木です。

 
その隣にはかやがありました。「平塚市保全樹木 かや 指定第六号 昭和五十一年七月一日 平塚市」と書いてあります。

 
これも下から見上げるとこんな感じです。

 
少し遠くから眺めてみましょう。これがくすのきです。

 
この写真の右側がかやです。これで日枝神社に別れを告げましょう。

矢崎道27:大縄橋

 
日枝神社の(29)から(30)(31)を通って(32)の大縄橋へ向かいます。

 
地図(30)の分岐点です。赤矢印で示した路地を進みます。

 
ゆるやかな左カーブです。

 
民家に突き当たりました。矢崎道はここをまっすぐに突っ切っていたようですが、ここを左折します。

 
地図(31)の場所に道祖神と書かれていたので、探してみましたが見つかりませんでした。ここは大縄橋バス停です。

 
大縄橋に近づいてきました。遠方に大山を望むことができます。

 
大縄橋から右をみると新大縄橋が見えます。

 
大縄橋を渡って少し歩くと大山を真正面から見ることができます。昔の人もこの角度で大山をみたことでしょう。

矢崎道28:豊田本郷駅

 
地図の(33)から(34)(1)の豊田本郷駅へ向かいます。



 
地図の赤矢印の交差点に差し掛かりました。

 
地図の(34)あたりです。正面に豊田本郷駅のバス停(赤矢印)が見えます。



 
これが豊田本郷駅バス停です。駅と言っても鉄道駅ではありません。”うまや”と呼び、馬や人夫がそろっていたのでしょうね。

 
地図(2)の豊田本郷交差点です。

矢崎道29:東橋(あずまばし)

 
地図の(2)から(5)の東橋へ行きましょう。

 
地図(3)の場所に豊中天満宮がありました。

 
その横には道祖神がありました。うれしいですねぇ。

 
近くには豊中自治会館があります。

 
しばらく歩くと東海道新幹線が見えてきました。

 
新幹線ガード下には東橋バス停があります。

 
ここが地図(5)の東橋交差点です。

矢崎道30:東橋〜岡崎大橋1

 
地図(5)から(8)へ向かって歩みを進めます。

 
幹線道路の脇に細い道があります。ここが矢崎道です。

 
こんな道がしばらく続きます。

 
地図(7)の場所に二つの道標がありました。左側は旧塔、右側は再建された新塔のようです。新塔の正面に廿三夜(二十三夜)塔と書いてあります。

 
左側には「川下 ひら塚 かない(注:金目)道」と書いてあります。

 
右側には「安政三辰年孟夏吉日 川上 いせ原道」と書いてあります。安政三辰年は1856年です。新塔は昭和六二年(1987年)四月に再建されました。

 
地図の(8)あたりです。左側のガードレールのある新道と違い、のんびりした旧道を歩いていきます。

矢崎道31:東橋〜岡崎大橋2

 
地図の再掲です。(8)から(10)に至るまでは、昔の矢崎道は消滅しているので、黒い実線の道を歩きます。

 
正面に大山がくっきりと見えます。

 
少し進み赤矢印を左折して(9)に向かいます。ここからも大山がきれいに見えます。

 
西の方をみると、富士山がきれいに見えました。

 
(9)から赤矢印の方を振り返ってみた写真です。

 
(9)から(10)へ向かう道路には写真のように歩道はなく危険ですので、岡崎大橋を渡って鈴川の右岸を歩くことにします。

矢崎道32:岡崎大橋〜新白髭橋

 
(9)から(10)(12)へ行く道路は歩道がなく危険なので、赤線のようなルートを歩きました。

 
岡崎大橋から鈴川越しに大山をみたところです。

 
鈴川にはカモが泳いでいました。

 
鈴川の堤防から富士山を眺めたところです。

 
新白髭橋が近づいてきました。

 
新白髭橋の東側の交差点です。

矢崎道33:新白髭橋〜簀子橋(すのこばし)

 
新白髭橋交差点から(15)の道祖神によってから、(11)の簀子橋(すのこばし)へ向かいます。

 
新白髭橋交差点から100mほどで右折するのですが、この間は歩道がありませんので、小走りでの移動をなりました。

 
ここを下っていきます。

 
下ったところを右折したすぐ右側(地図の(15))に写真のような大きな道祖神と小さな道祖神がありました。

 
(15)から(11)へ向かいます。

 
(11)の場所には白髭人道橋がありました。

 
白髭人道橋から少し西に入った鈴川堤防上からは、右に大山、左に富士山が望めます。

 
この小さな橋が簀子橋です。

矢崎道34:矢崎

 
地図の(11)から(16)へ向かいます。

 
これは(14)の和菓子屋です。

 
お店の前が矢崎のバス停(伊勢原駅行き)になっています。

 
ちょうど向こうから平塚駅行きのバスが走ってきました。

 
ここが平塚駅行きの矢崎のバス停です。

 
写真は地図の赤矢印の交差点です。東側にも道が伸びていますが、地図にはまだ反映されていません。

 
この橋が(16)の二ツ橋です。

矢崎道35:小田原厚木道路

 
二ツ橋から(19)へ向かいます。

 
しばらく歩くと目の前に小田原厚木道路が現れました。車道もアンダークロスしています。歩行者は赤矢印の細い路地を直進します。

 
こちらが歩行者用の階段です。ここを降りて、小田原厚木道路をアンダークロスします。

 
地図(19)の交差点です。左に行くと岡崎城址(無量寺)です。



 
足元には道祖神がありました。太陽光が強くてわかりにくいですが、「南東 大磯・平塚道」「北西 大山・伊勢原道」と書いてあります。

矢崎道36:岡崎城址

 
岡崎城址へ寄り道しましょう。

 
地図(19)の交差点では650mでしたが、登り坂を歩いてきてあと370mまでやってきました。

 
かなり急な登り坂をふうふうしながら歩き、岡崎城の本丸跡に建てられた無量寺へやっと到着しました。

 
左手には六地蔵がありました。

 
無量寺の全景です。

 
説明書きがありました。「伊勢原市指定史跡 岡崎城址 昭和44年2月27日指定   (長いので抜粋します。)   岡崎城は平山城で相模平野を一望できる台地の先端部分に立地しています。源頼朝の功臣、岡崎義実(三浦の衣笠の城主三浦庄司義継の四男)が築きました。岡崎城の周囲は湿地がめぐり、南は断崖で、要害の一つでした。永正9年(1512年)8月、北条早雲の猛攻により攻め落とされました。」



 
石仏や無縁仏などがありましたが、城の遺構は見当たりませんでした。

矢崎道37:認知症事件

 
地図の(19)まで戻って、(23)(24)へ向かいましょう。(19)までは下り坂なので楽ちんです。

 
地図(18)の場所に大句バス停がありました。みどりケ丘やふじみ野、そして湘南日向岡、高村団地を新興住宅地がいくつかあります。

 
進行方向右側に歩道が整備されているので、そこを歩きます。

 
大句バス停から300mほどで次の城所入口バス停がありました。この写真を撮ってから、道路の反対側をみるとおじいさんと孫娘らしい中学生くらいの女の子二人がいて、じっと私を見ています。しばらくするとおじいさんが「そちらへいっていいですか?」と私に聞いてきます。道路を渡るには私の許可が必要なわけではないので、変なことを聞くおじいさんだなぁと思いましたが、「いいですよ。車に気をつけてください。」と答えました。一緒についてくると思った孫娘らしき女子中学生はそのまま動きません。「あれっ、一緒じゃないの?」と声をかけると、困ったような顔をして頷きました。孫娘ではなかったようです。このおじいさんはなんだろうと疑いの眼差しを向けると、「どこまで行きますか?」と聞かれたので、「伊勢原駅まで歩こうと思っています。」と答えました。すると「私もついていっていいですか?」というので、断る必要もないので、「どうぞ」といい、二人で歩き始めました。

 
歩き始めるとすぐに岡崎交差点に差し掛かりました。赤信号を待っている間に「伊勢原駅からどこへ行くんですか?」と聞くと、「塩川町へ行くんだよ」と返事がありました。塩川町?・・・・・このあたりには塩川町という町は私の知る限りありません。そのうち道路の向こう側を指差して、「昔はあのあたりに住んでたんだよ」とか「今も、自分の家はここから歩いてすぐのところにあるんだよ」など、話をそらすように次々と話し始めました。歩行者用信号が青になったので向こう側に渡り、スマホで「塩川町」を検索すると、なんと福島県に塩川町があり、今では市町村合併で喜多方市になっていることがわかりました。「おじいさん、塩川町って福島県の塩川町?」と聞くと、「そうそう。福島県耶麻郡(やまぐん)塩川町諏訪★★★番地へ行くんだ。」と得意げに言いました。「じゃ、新幹線に乗っていくの? 切符はあるの?」と聞くと、「ここからバスで行く」とむちゃくちゃなことを言うのです。認知症で迷子になっているんだなぁ、ということが推測できたので、伊勢原警察署に電話して保護してもらいました。おじいちゃんに会ってからパトカーが到着するまで30分以上かかってしまいました。

さぁ、気をとり直して矢崎道歩きを再開しましょう。あの女子中学生二人もきっと相当困っていたことでしょう。

 
道の左側に写真のようなアンパンマンとバイキンマンの石像がありました。

 
矢羽根バス停です。聞き馴染みのないバス停ですので、比較的新しいバス停かもしれません。



 
地図(24)の馬渡(まわたり)交差点に到着しました。近くに馬渡バス停がありました。

矢崎道38:薬王院東前寺

 
地図(25)の東前寺に寄ってみましょう。

 
この坂を登っていきます。薬王院東前寺というそうです。

 
坂を登る前の右側に新しい馬頭観世音がありました。「280年前5月15日」っていつのことでしょうか?

 
こちらは古い馬頭観世音なのでしょうか?

 
これはすでにお墓でしょうか? まだ入口ではありません。

 
本殿です。

 
本殿入口には六地蔵がありました。

 
その横には大きなお地蔵さんがありました。

矢崎道39:下大竹界隈

 
地図の(26)(27)と進んでいきましょう。

 
地図(26)の分岐点です。幹線道路は右側ですが、旧道は赤矢印の左の狭い道です。

 
地図(27)です。この幹線道路を横切って向こう側の細い路地に向かいます。

 
道路を横切る前には団地下大竹バス停が、

 
そしてもうしばらく行くと下大竹バス停があります。ちょっと間違えそうですね。



 
次の信号の右奥にはドレファラシドという味噌ラーメンの美味しいラーメン屋さんがあります。ミとソは店内でどうぞという意味でしょうか(笑)

矢崎道40:桜台

 
地図(29)から(32)へ向かいます。このあたりはずっと登り坂です。

 
(29)から(28)の桜台小学校を見たところです。ここも登り坂です。

 
少し桜台小学校に近づいて左を見たところです。昔は(30)の道があったようですが、今は消滅しています。

 
地図の(31)あたりから大山がきれいに望めます。

 
我が母校の伊勢原中学校前バス停です。

 
地図(32)の桜台交差点に到着しました。

矢崎道41:伊勢原駅界隈

 
地図の(32)から(33)(34)(35)と進みます。

 
(33)の伊勢原駅入口交差点です。旧道はここから斜めに(35)へつながっていたようですが、一部消滅しています。

 
(34)の角です。ここを左に曲がります。

 
そして次の角を右折します。

 
右折して直進します。

 
地図(35)の場所です。私が小学校・中学校の時はここに踏切がありましたが、撤去されてしまいました。この道は古くからある道だったのですね。

今日の大山道矢崎道歩きはこれで終わりです。次は明日の予定です。
【1 平塚駅〜中原】  【2 中原〜伊勢原駅】  【2 3 伊勢原駅〜石倉橋】