かめかめ・かめラ
大山道 田村道
(神奈川県)
(2016/4/29、5/3、6/12)

【2 東円寺〜田村渡し跡】

(2016/4/29)(記 2017/8/20)

田村道10:東円寺




 しばらく行った右側にかわいい石造物がありました。


 左側には写真のような石造物群がありました。地図の(31)です。


 地図(33)は東円寺です。


 こがの渡しがあった場所で、舟つなぎ松跡の石碑がありました。

「東円寺の舟繋ぎ松
     舟つなぐ 松がゆかりの 東円寺  

 昔、東円寺前から城島(きじま)の浮島までの間は沼地で舟によって往来した。渡しに使った舟を東円寺の松につないだことから「舟繋ぎ松」と呼ばれ、ここの渡しを「こがの渡し」と言い次のような伝説がある。

 永正の頃、平間に子供のない夫婦が住んでいた。夫婦は大山不動尊に「こがの渡し」に道を造り、大山参りの人達を助けますので、子供を授けてくださいと願いをかけ、道造りを始めた。しかし、夜になると道が壊されているので不思議に思い、この悪さをする者を捕まえようと夜見回ったところ、道を壊していたのは白い蛇だった。夫婦は怒ってこの蛇を殺し「舟繋ぎの松」の根元に埋めた。

 その後、道は順調に進み立派に出来上がった。そして、夫婦にも男の子が授かった。ところが、男の子は十二歳のとき、ふとした病気がもとで亡くなってしまった。夫婦は大変悲しみ仕事も手につかなかったが、ある日、「舟繋ぎの松」の下の茶店に立ち寄り息子のことを話すと茶店の主人は、その子なら毎日笛を吹いてこの店へ菓子を求めにやって来るという。驚いた夫婦が店内に潜んでいると少年が現れたが、その日に限って笛を吹かなかった。店の主人が「今日はなぜ笛を吹かねえのか」と聞くと、少年は哀しい声で「今日は因縁があって笛は吹けませぬ。私の正体をご覧ください」と言うや殺された蛇の姿になって消え去った。夫婦はびっくりして、蛇を埋めた「舟繋ぎの松」の根元に祠をつくり、弁財天をまつり供養した。」
田村道11:小田原厚木道路


 小田原厚木道路を跨線橋で渡ります。地図の(32)の場所です。


 上り坂が見えてきました。


 信号を渡り、細い道を進みます。


 さらに細い道を進み、スロープを登ります。


 跨線橋から見た小田原厚木道路です。


 振り返ってみましたが、大山は雲の中でした。
田村道12:下谷(しもや)


 地図(32)から田んぼの中をまっすぐ歩いてきました。


 地図(36)の下谷交差点です。


 交差点の北東角にはこんなお地蔵さんが。


 建立志趣がありました。

「昭和四十三年五月十八日 この地において伊勢原警察署勤務神奈川県警部補 佐藤昌司殉職す。幸い当地所有者亀井雅夫氏の善意に依り故人の菩提を薦めかつ交通安全と事故防止を祈願する志趣を以て此の処に地蔵尊を建立して祀るものである。」

 悲しい過去があったようですね。


 地図(37)の平間入口バス停の分かれ道を左に曲がります。ここから平塚市に入ります。母の実家がこのあたりなので、幼少期に父の運転でこの左に曲がった道はよく通りました。直進する新道はまだなかったのです。時代は大きく変わりました。


 のどかな道を進みます。渋田川堤防上の道はとても細く感じます。ここを車が行き交っていたとは信じられません。
田村道13:土安橋


 渋田川堤防上の道をさらに進みます。


 地図(38)の昭和橋付近に白い紫陽花がきれいに咲いていました。


 野原橋の近くに「世界一タイヤマーケット」の看板がありました。ここが世界一なのでしょうか?


 地図(39)の土安橋です。


 土安橋から北(地図の赤丸)を見ると、渋田川、歌川、笠張川が合流しているのがわかります。
田村道14:御霊神社


 地図の(39)からさらに東へ進みます。


 正面に東海道新幹線が見えてきました。地図の(40)です。


 新幹線の高架をくぐると、左側に御霊神社(41)があります。


 本堂と鐘撞堂です。幼少期にここのお祭りに何度か来ています。昔の面影は残っています。


 御霊神社の道路向こうには道標(42)がありました。「是大山道」と書かれています。


 地図では春月堂という和菓子屋が書いてありますが、すでに「DAYTONA STYLE」というホイール屋に変わっていました。
田村道15:神奈中田村車庫




 地図(43)の横内交差点です。


 交差点のバス停は横内四ツ角です。ここは田村道と糟屋道との交差点でもあります。


 しばらく行った左側には神奈中田村車庫(44)があります。


 さらに進むと田村十字路交差点です。
田村道16:神田小学校前

 


 田村十字路を直進し、(45)をさらに直進します。とうほ動物病院の左側の細い道です。


 神田小学校前のバス停があります。


 左に見えるのが神田小学校です。


 地図(46)のところにお地蔵さんがありました。


 さらに直進します。直進といっても旧道らしい緩やかなカーブです。


 地図の赤矢印の突き当たりに着きました。
田村道17:旧田村十字路


 地図の赤矢印を南下(右折)します。ここは田村道と八王子(平塚)道が合流する場所です。


 相模神田バス停です。旧国名を冠にするなんて、鉄道の駅のような名前ですね。


 道路の右側には花水ラオシャンがありました。一度来たいのですが未訪です。


 花水ラオシャンの隣には和菓子の井筒屋があります。


 旧田村十字路交差点です。
田村道18:十王堂


 旧田村十字路の北東に十王堂跡碑(47)がありました。


 田村十王堂の解説がありました。

 「江戸時代にはかつてこの田村十字路に十王堂が建てられていた。伝承によると、天文六年小田原の北条氏が河越の上杉氏を攻撃する際、相模川で合戦があり、多くの戦死者を出した。この戦死者を妙楽寺の住職が集めて、篤く弔い後生のため十王堂一宇を建てたといわれる。」


 道標もありました。「右大山みち」と読めそうです。


 右側面の文字はちょっと読み取れません。
田村道19:八坂神社


 地図(50)の八坂神社に寄り道します。


 鳥居です。


 神社の右手奥に石造物がありました。正面の大きな道標には、「左大山道」と読み取れます。


 その横には、「渡し場道 いいやまみち」と書いてあります。


 記念石と書かれたものがありました。

 「江戸中期に建立されたと言い伝えられる拝殿に使用されていた土台石。神川橋架替工事に伴う社殿移設の際、他の石を補填したのでこれを記念石として保存する。」

 土台石ということは、石造物ではなく、その下にある平べったい石のことでしょうか。


 (49)の田村渡し場跡碑へ行く途中(地図の赤矢印)に、こんな看板がありました。先ほど前を通った井筒屋には神奈川指定銘菓の「たむら渡し最中」があるそうです。もう戻る元気もないので、購入しませんでした。
田村道20:田村渡し場跡碑


 地図の(49)の田村渡し場跡碑へも寄り道です。


 住宅地の中をちょっと迷ってしまいましたが、無事に田村渡し場跡碑を発見しました。


 説明が書いてありました。

 「田村の渡しは、中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江ノ島からの大山参詣のために使われた道です。渡し場のある田村は、この両往還と平塚から厚木へ向かう八王子道が交差する所で、旅籠屋などもあり「田村の宿」とも呼ばれていました。渡船場の業務は、田村と対岸の一之宮村・田端村(寒川町)の三か村が勤めていました。また、田村の渡し場付近は、大山・箱根・富士山を眺望することができ、景勝地としても知られていました。
     平成十三年(2001)三月    平塚市」


 短歌もありました。

 「阿夫利嶺を  まともに仰ぎ   旅人ら   声あげにけむ   ここの渡しに  
    中村清四郎」


 こちらにも昭和時代の説明がありました。

 「田村と田村の渡し場

 田村の地は、古くから、坂上田村麿に由緒の地と伝え、箱根路につづく、陸奥への海道に沿ったところに、相模川の渡し場があった。鎌倉時代には、三浦半島六義村の田村の館があり、鎌倉武士が、しばしば往来したことは、史書にあきらかである。また、江戸時代には関東の霊域大山万尊社への、参詣道として繁昌した。田村の渡し場は、大住郡田村、高座郡一之宮村、同田端村の三村が管理し、渡し船・馬舟など四艘を常置していた。明治初年の記録に「川幅五百二十二間(約九三九米)、水流六十間(約一〇八米)、深さ三尺(約〇・九米)より一丈(約三〇三米)」とみえている。渡し場から、西方諸山岳の眺望の絶佳は、最も芳名で、詩歌の作品が多くのこっている。  
    昭和四十八年三月二十一日   平塚市観光協会」
【1 伊勢原〜上平間】  【2 東円寺〜田村渡し跡】  【3 神川橋〜景観寺】  【4 寒川駅〜高田緑地】  【5 六地蔵〜四ツ谷】  【6 四ツ谷〜伊勢山公園】  【7 藤沢本町〜藤沢橋】  【8 藤沢橋〜湘南江の島駅】  【9 州鼻通り〜江の島】