かめかめ・かめラ
大山道 田村道
(神奈川県)
(2016/4/29、5/3、6/12)

【3 神川橋〜景観寺】

(2016/4/29)(記 2017/8/20)

田村道21:神川橋




 田村の渡しはないので、神川橋で相模川を渡ります。


 片側1車線で両側に歩道が設置されています。


 上流には寒川浄水場の取水堰が見えます。


 進行方向にはさがみ縦貫道路の高架が見えてきました。茅ヶ崎と相模原市を南北に結ぶこの道路ができたおかげで、東名高速から中央高速、そして関越自動車道への乗り換えが便利になりました。


 神川橋東交差点です。ここを右折します。
田村道22:河原橋の謎


 さがみ縦貫道路を地図に緑色で示しました。そしてこの地図では鷹匠橋(赤丸)を通る迂回路を提示(黒線)していますが、神川橋東交差点を右折(赤矢印)しました。


 さがみ縦貫道路に沿って進みます。歩道が狭く対抗自動車が来た時には注意が必要です。地図とは少し違っているようです。


 さがみ縦貫道路をアンダークロスします。


 河原橋に着きました。あれっ、ちょっと地図と違うようです。地図の(4)から(3)への道路が地図と異なるのです。ちょうど測量の仕事の方が前方から歩いてきたので、「お仕事中失礼しますが、この橋(河原橋)は以前からこの場所にありましたか?」と尋ねると「そうだと思いますよ。」という返事でした。「実は昔の大山道を歩いているのですが、地図と違うのですよ。」といっても「少なくとも私がこの仕事をしてからこの場所にありますよ。」ということでした。

 自宅に帰ってから改めて地図を見てみました。すると、不思議なことがわかりました。


 これは2002年(平成14年)1月1日発行の1/10,000地形図寒川です。これによるとA→C→Bとなり、C→Bの間に橋があることになります。この欄の最初の地図もこれを利用しているので同じになっています。


 こちらは2002年(平成14年)10月1日発行の1/25,000地形図藤沢です。測量はもう少し前だと思われます。これではA→Bで、Cは通っていません。


これは最新のネット上での地理院地図です。こちらもA→Bで、Cは通っていません。過去の地形図を調べても同様です。つまり「2002年(平成14年)1月1日発行の1/10,000地形図寒川」だけが異なるのです。とても不思議です。


 河原橋から北を見たところです。


 河原橋を渡ったところからBの地点までの道路と歩道は新しいものになっています。なんだか不自然です。


 そして地図Cの目久尻川側をみると、写真のように築堤のコンクリートの色が変わっています。これも不自然です。


 改めて歩道をみると、ここだけかなり幅が広い歩道があるのです。ますます不自然です。

 寒川町役場に問い合わせてみようかとも思いましたが、まぁ不思議なままにしておきましょう。
田村道23:河原不動尊


 地図では河原橋のすぐそばにある河原不動尊です。(本当はここに河原橋はなく、(4)の上の赤二重線の場所です。)


 河原不動尊の全景です。道路がカーブを描いているのがわかります。


 こんな感じの建物です。


 一之宮不動堂と記載してあります。昔の一之宮村にあるので、こう呼ばれていたのかもしれません。


 河原不動尊の説明がありました。

 「本尊は、不動明王坐像と二体の眷属(けんぞく)(お供の仏像)からなる不動三尊像です。不動明王坐像は江戸時代初期の作とみられ、宝暦三年(一七五三)に江戸芝口(東京港区)の初音屋平吉が修理した。との「胎内納入名札」に記されています。この坐像と眷属一体の制た迦(せいたか)童子像は、共に寄木作りの非常に上手な技巧による佳作と評されています。お堂の前にある力石は道標も江戸の人達が、二百三十年頃前に奉納したものです。
 このようにこの不動尊は、江戸とのつながりが深く、江戸時代には観光ルートとしても著名であった。目の前の大山道を、多くの道者達が往来し、大山参詣が栄えた様子を物語る史跡といえましょう。「新編相模国風土記稿」にこの不動尊について、「村民持ち大山道にあり」と記され、村人達が安寧を願い、寄り合い所として長い年月にわたり大事に守り続けて来たことがうかがえます。また同稿には「田村(相模川対岸の現平塚市田村)にあり(旧一之宮村の)現在地に移された」との記されていますが、詳細は定かではありません。
       平成十九年十二月  
 (一之宮河原地区住民による)   不動尊維持管理会」

 自治体ではなく、地域住民による維持管理会が組織されているのはとても素晴らしいことです。


 道標もありました。「右大山道」としっかりと読み取れます。


 大山街道の説明もありました。

 「江戸時代、大山講と称する講が関東一円にひろがり、江戸から大山阿夫利神社へ幾本かの大山街道が発達したが、最も隆盛を極めたものが東海道という一番安全な道を利用し、昔語りの名勝地となった鎌倉や行楽地の江の島を訪れてのコース〜東海道藤沢の西、四つ谷から西方に進み、大曲、中瀬、一之宮から田村の渡しを経て大山に通じる〜この道であった。」

 こちらは寒川町教育委員会でした。
田村道24:八角広場へ


 地図(6)の八角広場へ向かいます。


 河原不動尊から東へ向かいます。旧道らしい微妙なカーブです。


 赤線で示した馬頭観音です。


 押しボタン式信号です。


 この信号を右に行くと八角広場で、左に行くと丸太広場と書いてあります。一之宮公園を通称丸太広場とも言うようです。


 こちらが丸太広場方面ですが、ここで折り返します。ここは以前、国鉄相模線寒川支線の線路がありました。


 八角広場へ向かうこちらを進みます。こちらも国鉄相模線寒川支線の線路でした。
田村道25:八角広場


 八角広場に到着しました。


 中央の噴水の池が八角形だからでしょうか。


 鎌倉・江ノ嶋・大山   新版往来双六からの絵も飾られていました。


 公園の一角にレールが残っていました。


 この公園は、旧国鉄西寒川駅の相模海軍工廠跡に作られたのです。国鉄西寒川駅は1984年に廃止されました。


 1977年発行の1/25,000地形図藤沢です。寒川駅から支線が分岐して、相模川に近い西寒川駅まで延びています。

 1980年10月の時刻表によると、寒川ー西寒川の列車の本数は、朝1往復、夕3往復の1日4往復のみで、通勤に特化した利用だったのでしょうね。
田村道26:一之宮小入口交差点


 八角広場を後にして、さらに東に進みます。


 道の途中にもくせい号の笠谷入口バス停がありました。地域のコミュニティバスでしょうか。最近では、ローカル路線バス乗り継ぎの旅でもよく利用されるコミュニティバスですが、ここにもありました。ところで「笠谷」と聞いて札幌オリンピックを思い浮かべる私は、もう歳なのでしょう(泣)。


 こちらには神奈中の同じ名前のバス停があります。


 道路案内看板には「寒川北IC」というさがみ縦貫道路のIC名が誇らしげに書いてあります。


 地図(8)の一之宮小入口交差点にやって来ました。


 交差点を直進し、すぐの右側にお地蔵さんがありました。
田村道27:梶原景時館址




 地図(9)の梶原景時館址です。


 説明がありました。

 「梶原景時は治承四年(一一八〇年)八月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。
 景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将でした。頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(一一九九年)十一月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。
 その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治二年正月二十日午前二時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げました。館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。
     平成二十一年三月     寒川町教育委員会」


 これは角落としです。


 角落としの説明です。

 「両側の堰柱(せきばしら)の溝に、角材や板を落とし入れ、水流を調整したり、堰を止めなどする装置。西側の産業道路沿いにあった相模川防水堤に設けられ増水時には板を落とし、土嚢(どのう)などで補強して洪水から西町を守った。
     平成28年3月」

 できたてホヤホヤの説明板でした。
田村道28:薬師堂


 薬師堂に向かいます。


 これが薬師堂です。


 西町集会所も兼ねているようです。


 正面右にはお地蔵さんが鎮座していました。


 これが梶原景時館(一宮館)の全貌です。確かにかなり広かったようですね。


 薬師堂の裏にある地図(10)の「伝梶原氏一族郎党(七士)の墓」に行くのですが、東側から回り込む必要がありそうです。


 ありました。ここが伝梶原氏一族郎党(七士)の墓です。


 説明がありました。

 「この石造物群には次のような言い伝えがあります。正治二年(一二〇〇年)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのをみて鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。
平成二十一年三月     寒川町教育委員会」

悲しい過去があるわけですね。


 こちらは「箙(えびら)の梅」です。

 説明がありました。
「梶原源太景季(かげすえ)は景時の長男で、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取である。寿永三年(一一八四年)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで愛馬「麿墨」共に武名をあげる。同年二月、生田の森・一ノ谷の合戦では、折しも咲き誇る梅が枝を箙(えびら)に挿し、

かかれば花は散りけれど
     匂いは袖にぞ残るらん

と戦陣を馳せる景季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙(えびら)の梅」が演じられている。八月、一之宮八幡大神例祭の宵宮の屋台巡行に加わる「西町」の屋台は館址にふさわしく、梶原氏に因む彫刻で飾られ、碑の景季公は一部を模写したものである。

平成二十年五月     梶原公顕彰会二十周年記念事業」
田村道29:松戸橋跡・金比羅宮


 本の折り目で見えませんが、赤丸の松戸橋跡に行きましょう。


 ここが松戸橋跡です。橋の面影がありません。


 説明がありました。ちょっと読みづらいのですが、

 「寒川町南部教育発祥の地

 この地附近は江戸時代 大山街道の宿場として大いににぎわい明治六年(一八七三年)●●●この地に●●明治九年一之宮学校と改称され現在の一之宮小学校の前身であり、寒川町南部の教育発祥の地である。●●●●」

読める部分だけ読んでみました。●は読めない部分です。




 こちらが進行方向左手にある日蓮宗妙光寺です。


 そしてこちらが進行方向右手(地図の(13))の金比羅宮です。


 小さめな本殿です。
田村道30:一之宮八幡大神


 「箙(えびら)の梅」の中で、説明文中にでてきた、一之宮八幡大神に寄り道します。


 寒川十字路バス停です。


 ここが一之宮八幡大神の鳥居です。


 五月五日にはこいのぼり祭が行われるそうです。(ちなみに訪問した日は4月29日でした。)

 
 参道にはところ狭しとこいのぼりが飾られていました。


 本殿にも御覧のようにこいのぼりがありました。


 本殿の裏にはお稲荷さんがありました。


 その横には石造物群がありました。
田村道31:神明宮・景観寺




 地図(17)の神明宮です。なんだかちょっとしょぼいです(笑)。


 地図(15)の景観寺前交差点です。


 その交差点のすぐ近くに窪田山景観寺があります。地図の(16)です。


 本堂です。景観寺というくらいだからもっと景観がいいかと思いましたが、普通でした(笑)。


 景観寺バス停です。今日の散策はここまでとします。これから寒川駅に向かい、相模線で厚木へ、そして小田急線に乗り換えて伊勢原へ戻ります。 FC2ブログランキング
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