かめかめ・かめラ
大山道 田村道
(神奈川県)
(2016/4/29、5/3、6/12)
【5 六地蔵〜四ツ谷】
(2016/5/3)(記 2017/8/20)
田村道40:六地蔵
地図(30)の赤丸の六地蔵に寄ってみます。
高田緑地からさらに東へ向かいます。
「赤羽根六地蔵堂」と書いてあります。
六地蔵の奥に「大山街道句碑」がありました。
春風や いそがぬ人の そでを吹く 密人たちの かなしみを泣く 蛍かな
田村道41:赤羽根神明神社1
今度は地図(32)の赤羽根神明神社へ寄り道です。
こちらは地図(31)の大ケヤキです。
大ケヤキのすぐ脇に鳥居があります。「指定村社 神明大神」と書いた石碑があります。
鳥居をくぐってしばらく進むと、道路がありさらにその先に参道が続いています。
釣鐘もありました。
参道周囲の木々はご覧のように伐採されているものもありました。何か問題があったのでしょうか。もったいないです。
田村道42:赤羽根神明神社2
新湘南バイパスの側道をオーバーパスし、新湘南バイパスはアンダーパスします。
反対側の側道の様子です。
この歩道橋は「神明歩道橋」と呼ぶようです。
昭和63年3月に完成しました。私の手が反射して写ってしまっています(笑)
田村道43:赤羽根神明神社3
やっと本殿が見えました。相●(刀が三つ?) 赤羽根 鎮座 神明大神と書いてあります。
比較的新しい本殿ですね。
神明大神由緒が書かれていました。
「祭神 大日霎貴命
合祀神 素戔嗚尊・菅原道真公・福都日神
大日霎貴命は天照大神の別称、大日霎貴ともいい日神とある。合祀の三神は、八雲神社、天満宮、荒魂神社等の神であったが、明治四十三年十月の一村一社制度の施行に伴い、上赤(羽根)中赤(羽根)の二社は、下赤羽根の神明大神に合祀された。
(中略)
昭和五十七年新湘南道路計画に当たり、新しく移築された敷内千三百余坪、総てが社領であり、平坦な境内には数百年の樹木が並び、供鐘燈籠が今も神社の荘重な姿を映す。七月には歴史ある浜降祭と九月の例大祭と御輿渡御で賑わい、日々常々は地区民が平穏を願う鎮守神である。
平成十九年七月吉日 赤羽根神明大神氏子総代」
ここへ来るまでの参道の樹木は樹齢数百年もあったのですね。
記念碑がありました。
「湘南地域交通緩和に伴う新湘南国道の建設にあたり、神明大神境内地参道の一部が建設省の計画路線に掛かる。このため神社の財産たる境内地保全と神社の尊厳維持のため深く憂慮し、財産処分の決定については氏子を挙げその英知を結集する。昭和五十四年を起点として建設省との度重なる協議の末、買収価格に神木銀杏の保存を条件に加えて譲渡成立する。昭和五十五年神社本庁への財産処分申請を手始めとして、境内地の模様替え造成工事と神殿、神楽殿、社務所、手水舍等主要建築工事の設計契約を経て、諸工事は年度を追って着々と進み各々その竣工をみるに至る。思うに昭和五十八年、御遷宮までの5か年間建設委員をはじめ氏子は一致団結してその精魂を傾け数多の困難を克服して、ひたすら由緒ある神明大神の保全と御神徳の発揚を念じ、また関係建設業者の熱意ある貢献のもと慈に御遷宮の大業を成就するに至る。
昭和五十八年九月十七日 赤羽根 神明大神氏子中」
自画自賛の内容だなぁ。
田村道44:松林村役場跡
地図(32)の赤羽根神明大神から(33)の松林村役場跡へ向かいます。
その途中に大きな瓢箪を発見しました。井上酒店です。
松林村役場跡がありました。
松林村の由来が書いてありました。
「この前を通る大山街道は、田村の渡し(寒川)で相模川を渡る大山参りの近道で、江戸の商人・職人をはじめ多くの文人・墨客が往来した。赤羽根・甘沼の丘陵の南面をほぼ平坦に並行する、のどかな街道であった。正面に日本一の富士を仰ぎながら夫々大山参りの楽しい旅をしたことでしょう。しかし静かな農村にも幾度か行政の改変があり、各村々が合併を重ねていった。
明治二十二年(一八八九年)赤羽根村を始め、室田・菱沼・小和田・高田・甘沼・香川の七カ村が一つになって松林村となり、此の地に松林村役場が建設され、村長には水越良介氏(後に茅ヶ崎町町長・神奈川県議会議員を歴任)が就任した。
明治四十一年、松林村、鶴嶺村、茅ヶ崎村が合併して茅ヶ崎町ができるまでの約二十年間、此処松林村役場は地方自治の重要な拠点であった。
昭和二十二年市制が施行された当時の茅ヶ崎市の五万余の人口も、市制六十周年を迎えた今日は約二十三万と急激な増加を見るに至り湘南の中核的都市となりました。大山街道に添って湘南バイパスが建設されるなどに至り、かつてのふるさと的農村風景も次第に失われつつあります。」
田村道45:旧道歩き1
地図(34)の妙行寺です。
妙行寺の反対側に大きなお屋敷がありました。お大尽なのでしょう。
地図(35)の分岐です。ここを左の小道に入ります。
またまた分岐がありました。ここは右手に進みます。
地図の赤矢印の場所で、路地を直進します。
元の道に戻ってきました。
田村道46:旧道歩き2
松林ケアセンター前バス停です。地図の赤矢印あたりです。
地図赤枠で囲ったコンビニです。右側の道を進みます。
ここは直進します。
幅の狭い道を進みます。このあたりはあまり目標物がありません。
旧道らしい微妙なカーブが続きます。
ここは地図(36)の辻堂変電所です。
田村道47:裏道
道の枝分かれが連続します。まずは地図の(36)と(37)の間の赤矢印の場所です。ここは直進します。
次に(37)の白丸の角、青矢印の場所です。ここは斜め左へ向かいます。
次は緑矢印の場所です。ここは右斜めへ進みます。
ここは(38)の変電所です。変電所が多いですね。
そしてなんとも言えない旧道カーブの道を進みます。
田村道48:折戸地蔵
地図(40)の折戸地蔵です。
この左手角にあります。
ここが折戸地蔵です。祠に「折戸」と書いてあります。
こちらから見ると、右へ行くのが大山道になります。写真のような句碑がありました。
「右野道 地蔵も花も笑ひけり」 by 薫風
田村道49:一の鳥居
地図(41)の一の鳥居へ向かいます。
城南一丁目交差点を直進します。
この路地に入るのです。
一の鳥居の後ろ姿です。
敬意を表して正面写真も撮りました。
田村道50:四ツ谷道標1
一の鳥居のすぐそばに道標がありました。
下側は「大山みち」と書いてありますが、上半分は読めません。
「平成十七年七月一日再建 地主 鈴木得郎 四ツ谷町発起人一同 大山阿夫利神社 目黒」とあります。目黒とは阿夫利神社の宮司さんの苗字でしょうか。
四谷不動(大山道標)について解説がありました。
「東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。延宝四年(一六七六)に江戸横山町の講中が建てたものです。堂外の道標が初代のもので、万治四年(一六六一)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。今でも七月一日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われています。
平成五年二月 藤沢市教育委員会」
田村道51:四ツ谷道標2
こちらには記念碑がありました。「藤沢バイパス道路新設、、、、、、、昭和三十八年二月二日 四谷町内会」とあります。
祠の中には「大山道」と刻まれた石造物がありました。
側面には「これより大山道」とありました。
【1 伊勢原〜上平間】
【2 東円寺〜田村渡し跡】
【3 神川橋〜景観寺】
【4 寒川駅〜高田緑地】
【5 六地蔵〜四ツ谷】
【6 四ツ谷〜伊勢山公園】
【7 藤沢本町〜藤沢橋】
【8 藤沢橋〜湘南江の島駅】
【9 州鼻通り〜江の島】