かめかめ・かめラ
北三陸紀行
(青森県〜岩手県)
(2014/7/19-21)
【5 島越駅・田野畑駅】
(2014/7/20)(記 2014/11/29)
堀内駅からは再び宮古行きの列車に乗り、三陸鉄道で三番目の普代トンネル(4,700m)を通って島越駅へ向かいます。こちらの列車も満員です。
この駅で降りたのは4人。父親と男の子、そして若者です。乗ってきた列車を見送ります。
島越駅出発
堀内1243ー島越1308 三陸鉄道北リアス線(宮古行き)
島越駅の駅名標です。この駅の愛称は“カルボナード”です。これは宮沢賢治の童話のカルボナード火山島に由来するそうです。
「おかえり三鉄。ここから未来へ。」という垂れ幕がかかっています。ここは東日本大震災で、駅舎・ホームのみならず、線路まで津波で消失してしまいました。
線路は高架橋から築堤に代えられ、ホームも少し久慈よりに移して、駅舎も再建中でした。
この駅舎は1週間後の7月27日から使用を開始されたようです。
中東の産油国のクエートからの経済的支援を受けて、新しい車両を導入できました。その御礼が書いてあります。
駅のホームから島越海岸を眺めます。工事が続けられている様子です。
駅のホームから簡易階段を下ってきたところで、ホームを見上げてみました。この階段も来週には使われなくなるのでしょう。
ここが駅へつながる簡易階段の入口です。
ここが駅の入口です。
新しい駅舎とホームの垂れ幕が見られます。
海の方に行ってみましょう。「第4種 島の越漁港 所在地:下閉伊郡田野畑村・・・」と読み取れます。
漁港としての工事中なんですが、砂浜が残っています。
島越海岸
左は田野畑駅に展示してあった震災前の写真で、右は「旅と鉄道」2014年5月号に掲載されていた震災前の駅舎です。島越駅前の海岸はやはり海水浴場だったようです。なぜ海水浴場として復活させずに、漁港になるのでしょうか。理由がわかりません。
元の駅舎があった場所に階段が残っていました。
階段の奥には、宮沢賢治の歌碑や駅名の由来などがかろうじて残されていました。
こちらの左の写真は島越駅のホームに掲示してあった震災前の写真です。駅舎と線路、そして多くの民家が写っています。しかし津波により黄色の矢印の家以外はほとんどすべて消失してしまいました。右の写真は現在の様子です。かなり高台にあったために津波の災害を免れた民家です。
さて、次の久慈行きの列車で田野畑駅へ戻ります。3両編成の列車はまたまた満員でした。三陸鉄道はすごい人気です。
田野畑駅で乗ってきた列車を見送ります。
田野畑駅出発
島越1358ー1402田野畑 三陸鉄道北リアス線(久慈行き)
田野畑駅の駅名標です。ここの愛称は“カンパネルラ”です。カンパネルラとは宮沢賢治の銀河鉄道の夜に登場する人物に由来するそうです。
小さいながら和風の待合室があります。
山側の斜面には「皆さんの温かい心に感謝!」「これまでもこれからもLOVE三鉄。」「ようこそ北三陸へ!」などの垂れ幕がありました。あまちゃん効果が抜群のようですね。
ホームから田野畑駅舎を眺めます。
駅前の歩道にある花壇と田野畑駅舎です。
かなり大きく立派な駅舎です。壁には桜がデザインされています。
駅舎には愛称が誇らしげに掲げられています。
駅舎の目の前には津波到達地の石碑がありました。かなり高い場所まで津波が到達したようです。
スタンプはシンプルです。おそらく北山崎の風景がデザインされています。
田野畑駅の近くからはサッパ船クルーズというのがあるそうですが、今日は悪天候にて欠航でした。
田野畑駅から下って海の近くまで行ってみました。徒歩で5分ほどです。平井賀川水門には三陸鉄道の列車のオブジェがあります。決して津波でこのようになったわけではありません。
水門の近くには津波で被害を受けたままであろう建物がそのままになっていました。
この地区では海沿いの建物は高台のみとなっていました。低地は草が生えていて手つかずでした。
【1 八戸・みろく横丁】
【2 八戸線】
【3 久慈駅周辺】
【4 白井海岸駅・堀内駅】
【5 島越駅・田野畑駅】
【6 田老駅・防潮堤】
【7 摂待駅・宮古駅】
【8 一の渡駅・山口団地駅・佐羽根駅】
【9 快速リアス】