かめかめ・かめラ
大山街道(赤坂御門ー伊勢原)
(東京都ー神奈川県)
(2019/1/14)

【1 赤坂ー青山】
(2019/1/14)(記 2020/3/29)

01伊勢原ー代々木上原:大山街道


 しばらく中断していた「大山みち歩き」を再開しよう。今回は大山みちの中でも江戸と伊勢原・大山を結ぶメインルートとも言うべく、赤坂御門から矢倉沢往還を通っての大山へ行くルートである。上記地図では太線で示されており現在の国道246号線にほぼほぼ沿っている。


 参考とした本は中平龍二郎著の「ホントに歩く大山街道」(風人社、2007年)である。


 2019年(平成31年)1月14日早朝、小田急線と東京メトロを使って出発地点の永田町駅まで移動した。 自宅を出てすぐ。まだ夜は明けない。淡く空が輝いているだけである。


 自宅から徒歩で伊勢原駅へ。まだ暗い。




 伊勢原駅6時39分発の急行新宿行きに乗る。


新百合ヶ丘駅で7時15分発の快速急行に乗り換える。


代々木上原駅で千代田線に乗り換えるために途中下車する。朝食を食べていなかったので、一度改札を出てアコルデ代々木上原内の箱根そばでコロッケそば(440円)を食べた。これでお腹も満たされ身体も温まった。


 今日は右上の赤坂御門を出発してどこまで行けるだろうか。  

伊勢原0639ー0711新百合ヶ丘 急行新宿行き
新百合ヶ丘0715ー0732代々木上原 快速急行新宿行き
02赤坂御門跡


 この地図は「ホントに歩く大山街道」に掲載されている地図である。便宜上「平成地図」としておこう。
(1)永田町駅出口
(2)赤坂御門跡
(3)弁慶橋
(6)豊川稲荷
(7)牛啼坂
※(4)の赤坂プリンスホテルは2011年3月で営業を終了し、東京ガーデンテラス紀尾井町として2016年7月に開業した。


 こちらの地図は地図センターからネットで購入した「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」である。こちらを便宜上「明治地図」とする。大山街道を平成地図と明治地図とで比較してみようと思う。
(2)赤坂御門跡
(3)弁慶橋あたり
(7)牛啼坂
 赤坂御門跡の南には日枝神社(赤線)が見える。赤坂御門跡と日枝神社の間は今では赤坂エクセルホテル東急やプルデンシャルタワーなどがあるが、この時代では雑や畑や竹という文字が見える。雑木林や畑や竹林があったことを想像するのも興味深い。


 代々木上原駅から千代田線で表参道へ。そして半蔵門線に乗り換えて永田町駅で下車する。9a出口を探すと南北線ホーム経由でかなりの距離を歩くことになる。伊勢原からなら新宿まで行き、丸ノ内線に乗り換え赤坂見附駅で下車して歩いた方が早いだろう。


 この石垣が赤坂御門の一部である。江戸時代の大山街道の出発点だと思うとひときわ感慨が湧いてくる。


 赤坂見附跡という案内もある。


 当時はこのように枡形になっており敵の侵入を防ぎやすい構造になっていた。



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史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門

 正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。
 赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
 明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年の地下鉄南北線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。
 現在右手の石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。  
    千代田区教育委員会
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 大山まいりすごろくをデザインした手ぬぐいがある。これではスタートは日本橋になってあり赤坂は通過点である。


 今日はどこまでいけるだろうか?

代々木上原0747ー0752表参道 我孫子行き
表参道0755ー0759永田町 急行久喜行き
03赤坂見附


(2)赤坂御門跡
(3)弁慶橋
(6)豊川稲荷
(7)牛啼坂


(2)赤坂御門跡
(3)弁慶橋あたり
(7)牛啼坂
 平成地図と明治地図では方角が45度ほどずれている。明治地図の真上が真北になっているが、平成地図では右上が真北になっている。


 赤坂御門跡から赤坂見附交差点方面を見る。


 直進すると渋谷を通り厚木へ向かう国道246号線である。


 赤坂御門跡の左側(西側)にはこのような石垣が残っている。


 赤坂見附交差点までやってきた。


 こちらが現在の弁慶橋(3)。手前のお堀ではボート遊びができるようになっている。弁慶橋は弁慶堀に架かっている。武蔵坊弁慶とは無関係で、橋と堀の工事を請け負った弁慶小右衛門から名づけられた。
04豊川稲荷東京別院




 赤坂見附交差点を直進してゆるやかな登り坂を進む。明治地図では青い点線で示している。


 道路を挟んだ左側を見ると「一ツ木通り」という看板が見えた。ロス・インディオス&シルビアのベストヒット♪別れても好きな人♪(1979年)の2番に「ちょっぴり寂しい乃木坂 いつもの一ツ木通り」という歌詞があったのを思い出した。へぇー、ここだったのか。


 江戸情報地図にもここに一ツ木町があったことが記されている。


 大山街道を歩むにはこの歩道橋を渡る必要があるが、その前にちょっと豊川稲荷に寄り道する。


 ここが豊川稲荷である。地図の(6)だが明治地図には記載がない。


 豊川稲荷の手前で右に下る坂は九郎九坂という。

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九郎九坂(くろぐざか)
 江戸時代の一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖、九郎九が住んでいて坂名になった。鉄砲練習場があって鉄砲坂ともいう。
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豊川稲成は、正式には豊川稲荷東京別院というらしい。



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豊川稲荷縁起
 豊川稲荷は稲穂を荷い白狐に跨り給うお姿の豊川●枳尼真天にましまし 今から凡そ七百余年の昔 順徳天皇第三皇子寒厳義_尹禅師によってはじめて感見され それより代々伝えられて嘉吉元年(西暦1441年)_旧十一月二十二日豊川の霊場豊川閣妙厳寺に奉祀されました 尓来福徳の善_神として広く御信者の皆様に信仰せられて今日におよんでおります
 当山は愛知県豊川閣の東京別院で江戸時代の名奉行大岡越前守忠相公が生涯の守護神として日夜信仰せられた由緒ある豊川●枳尼真天の御尊像をおまつりする霊場であります
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 豊川稲荷の唯一の直轄別院(飛び地内境内)ということだ。さすが大岡越前である。なお当初は大岡邸内にあったが、小学校を建てるために明治20年(1887年)にこの地に移転したということだ。そのため明治地図(明治14年測量)には記載がなかったのであろう。


 こちらが拝殿となる。これからの旅の無事を祈った。


 さて歩道橋へ引き返し、これから大山街道を進むべく道の向こう側にわたることとする。
05牛啼(鳴)坂


 これから(7)牛啼坂を進む。(8)弾正坂や(9)薬研坂を横切り(10)の高橋是清翁記念公園まで行こう。


 江戸情報地図にもはっきりと「牛啼坂」と書かれている。


 明治地図の(7)が牛啼坂である。


 横断歩道の上からの眺め。左斜め前方の道を進む。


 牛啼坂である。道路左側は現在ビルの工事が行われている。こちらは牛鳴坂と書かれている。

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牛鳴坂(うしなきざか)
 赤坂から青山に抜ける厚木道で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた。さいかち坂ともいう。
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 皀角(さいかち)の花がたくさん咲いていたのだろうか?


 なんだか立派な門が見えてきた。


 山脇学園という私立女子校の敷地内にあるようだ。


 説明には次のように書かれていた。

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重要文化財 武家屋敷門
 長屋門、桁行21.8m、梁間4.7m、二階建、切妻造、片流面出番所付属、本瓦葺

 この武家屋敷門は、江戸城東廊八重洲大名小路(千代田区丸の内東京中央郵便局付近)にあった幕府老中方屋敷の表門で、文久二年(1862)の火災後、当時の老中であった本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)によって再建されたとみられる。

 当時は桁行五十八間(実長約120m)にも及ぶ長大な長屋門であったが、左右両側が切り縮められて、門と左右番所のみが移築されている。数少ない江戸城下の大名屋敷遺構のなかでも、五万石以上の諸侯または老中職に許された長屋門の形式をもつ唯一の遺構である。
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 そして(8)の場所で右を向くとご覧のような弾正坂。

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弾正坂(だんじょうざか)
 西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任せられることがおおかったため名づけられた。
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 ちなみに弾正大弼とは、風俗の取り締まりなどをする役所「弾正台」の次官である。昔から風俗を取り締まるということが行われたいたとは興味深い。


 このあたりはコミュニティバスのちぃばすが走っている。


 そして(9)の薬研坂。薬研のような形をしているからということだ。

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薬研坂(やげんざか)
 中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ。
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 しかし、明治地図を見るとここから少し離れた場所に「ヤケンザカ」と書かれている。時代とともに坂が移動したのかどうかは謎である。


 これが薬研。底があり両端が高くなっている。


 ここで国道246号と再合流した。
06高橋是清記念公園


 平成地図では(10)の場所である。


 明治地図では(10)に相当する場所である。昔は赤坂役所があったのだろうか。この先の南側には茶や畑の文字が見える。赤坂と青山の間に茶畑があったとは現在からはとても想像できない。




 高橋是清記念公園に着いた。


oh19kai  公園内は閑散としている。公園内を清掃担当の方々が掃除していた。


 公園の奥に高橋是清像があった。高橋是清は第20代内閣総理大臣であるが、財政家として知られているため総理大臣より大蔵大臣(当時)としての評価が高いそうだ。1936年(昭和11年)2月26日いわゆる「2・26事件」で殺害され83歳の生涯を閉じた。




 公園の隣にはカナダ大使館がある。大使館があるということはここが赤坂役所のあった場所かもしれない。


 道路の反対側は広大な赤坂御用地である。
07青山一丁目


 ここから(11)の青山一丁目交差点に向かう。


 明治地図ではおそらく(11)の場所が今の青山一丁目交差点であろう。南側には埋葬地や墓地の文字がみられ現在の青山墓地と一致する。畑や茶という文字も散見される。


 清々しい空気の中を西へ向かう。


 赤坂郵便局の前を進む。


 ちぃばすが運行しており乗客を乗せて出発した。


 ここが青山一丁目交差点。大きな交差点になっている。




 そして明治神宮外苑の文字が見える。


 今日は成人の日で祝日。日の丸が掲揚されていた。


 地下鉄の外苑前駅のそばまでやってきた。
08梅窓院


 平成地図では(15)が梅窓院である。


 明治地図でも(15)の近くに卍記号があり、その近くに梅窓院と書いてあるのが読める。


 ここが梅窓院の入口である。


 竹林の中の参道を進む。




 不老門という山門があった。


 正式には長青山寳樹寺梅窓院というそうだ。
09善光寺別院


(16)南青山三丁目交差点
(17)善光寺別院
(18)表参道交差点


(16)南青山三丁目交差点
(17)善光寺別院
(18)表参道交差点

 明治地図ではこのあたりにも茶畑が多い。街道沿い以外には住居はそれほど多くない。


 外苑前交差点を進む。




 成城石井も24時間営業してるのですね。


 ここが南青山三丁目交差点。2018年10月には児童養護施設(港区子ども家庭総合支援センター)の建設に地元住民が反対というニュースがあったが、このあたりなのだろうか。


 そして(17)の善光寺に着いた。明治地図にも善光寺と書いてあるのが読める。


 南命山善光寺別院という。徳川家康が信濃の善光寺から勧請して谷中村に建てたものをここへ移転した。


 立派な本堂が正面に見えた。
10青山学院


★1 南青山五丁目交差点
(19)青山学院
(20)国連大学
★2 (23)金王八幡宮・(25)東福寺への道


★1 南青山五丁目交差点
(19)青山学院
(20)国連大学
★2 (23)金王八幡宮・(25)東福寺への道

 青山学院があるところには葡と書いてある。葡萄畑があったのだろう。他にも梨や李(もも)などの果樹園もあったらしい。梅や櫻や桑の文字も見える。(23)八幡社(金王八幡宮)や(25)東福寺も記載されている。




 表参道交差点を進む。このあたりは日曜日の朝にもかかわらず人通りも多い。


さらに進む。




 南青山五丁目交差点をさらに進む。




 (19)の青山学院大学である。今年(2019年)の箱根駅伝では惜しくも準優勝で5連覇ならず。優勝したのは我が母校の東海大学! 来年も連覇を目指そう!


 こちらが(20)の国連大学。こんな大学があることを初めて知った。
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