かめかめ・かめラ
大山街道(赤坂御門ー伊勢原)
(東京都ー神奈川県)
(2019/1/14)

【2 渋谷ー三軒茶屋】
(2019/1/14)(記 2020/3/29)

11宮益坂上


★3 宮益坂上交差点


★3 宮益坂上


 宮益坂上交差点に着いた。


 こちらは(1)の金王坂である。


 歩道橋の上から宮益坂上を眺めてみる。五差路になっており大きな交差点である。


 (2)が国道246号線で(3)はこれから進む宮益坂。


(1) は金王坂。
(2) は国道246号線


(4) は右折する道。
12御嶽神社


(22)御嶽神社


 江戸情報地図によると御嶽神社に向かう道には富士見坂と書かれている。おそらくここから富士がよく見えたのであろう。


(22)この神社記号が御嶽神社なのだろう。


 本来の富士見坂はちょっと左手だと思われる。ヒカリエ方面へと左折する。


 この坂が昔の富士見坂なのだろう。今となっては建物に囲まれて見晴らしは全く期待できない。成人の日なので振袖姿の若いお嬢さんが慣れない草履で歩いていた。


 平成地図には東急文化会館となっているが、ここは現在では渋谷ヒカリエとなっている。渋谷駅周辺の変わりようは著しい。


 宮益坂に戻り御嶽神社入口にやってきた。都内のど真ん中にある神社の雰囲気がよくでている。


 階段を登るとさらに鳥居と拝殿があった。


 この大山街道の旅の安全を祈願した。宮益の地名はこの御嶽神社の御利益で益々栄える町ということに由来する。
13渋谷駅


(21)宮益坂
(26)渋谷川
(27)忠犬ハチ公像
(28)道玄坂


 明治地図には(26)渋谷川がある。川の水が鉄分を含み渋色をしていたから渋谷となった。
大山街道と渋谷川の交わるあたりが渋谷駅だろう。


 左手に工事中の鉄道施設と大きなビルを見ながら坂を下る。


 宮益坂下交差点に着いた。渋谷川は暗渠になっているのだろう。


 正面にはJRの高架がある。


 ガードをくぐると渋谷スクランブル交差点だ。


 渋谷駅前に向かうと東急の昔の車両が待ち合わせ場所になっていた。


 もちろん忠犬ハチ公像での待ち合わせも健在である。


 渋谷駅の建物は数多くの広告看板で覆われている。


 これから道玄坂を登っていく。
14スクランブル交差点








 道玄坂を登る前に、交差点の一角に立ちスクランブル交差点をグルっと眺める。






 今はそれほどではないが、テレビの映像などを見る限り、混んでいる時にはこの比ではないであろう。
15道玄坂


(28)道玄坂
★1渋谷109


(28)道玄坂


 スクランブル交差点から少し進むと渋谷109がある。


 さらに道玄坂を進む。


 道玄坂交差点があった。


 右手には渋谷百軒店商店街があり、ここが昔の渋谷の中心だった。百軒店は1923年(大正12年)の関東大震災で被災した店を受け入れてできた繁華街である。
16道玄坂道供養碑


(29)百軒店商店街
(30)道玄坂道供養碑


(29)百軒店商店街
(30)道玄坂道供養碑


 紅白のカーテンに隠れるように供養碑がある。


 与謝野晶子がふるさとを詠んだ短歌の碑があった。



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母遠うて 瞳したしき 西の山  相模か知らず 雨雲かかる
 歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治35年(1902)四月に発行された東京新詩社の機関紙「明星」に収められています。
 晶子は、前年に、郷里の大阪府から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野_寛と結婚しました。処女詩集の「みだれ髪」も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子によって、身心の負担は思いもよらず大きなものでした。
 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。
 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。
 なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。
     渋谷区教育委員会
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渋谷道玄坂
 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。やがて明治になり品川鉄道(山手線)ができると渋谷附近もひらけだした。近くに住んだ芥川龍之介、柳田國男がここを通って通学したり、坂下に新詩社ができたり林芙美子が夜店を出した思い出もある。これからも道玄坂は今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。
   樋口清之
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 ここに書かれている大和田道玄は実は山賊の親分で、この大山街道を行く旅人を襲ったという歴史がある。
17大坂


(31)大坂上バス停
(32)大坂入口
(33)大坂


(32)大坂入口


 道玄坂上交差点で再び国道246号線と合流した。ここからしばらくは首都高を見上げながら歩くことになる。


 少し歩くと神泉町交差点に着く。


 (31)の大坂上バス停。


 この分岐の右側の下り坂を行く。



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大坂(おおさか)
 厚木街道(江戸から厚木まで)の間にあった四十八坂のうち、急坂で一番大きな坂であったので、大坂と呼ぶようになったといわれる。この坂標識の北側の坂が旧道で、南側の坂が新道である。
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大坂と言っても、なおみではない(笑)


 右側の道を進んでみる。


 徐々に下り坂になっている。


 かなり下ってきた。この大坂は、落とした団子が坂下まで転がるほどの急坂だったことから団子坂とも言われた。
18大坂橋


(33)大坂


(33)大坂入口


 本来の大山街道はここを直進していたようだが、今ではその道はない。


 左折してすぐの大坂橋下の信号機の場所を横断する。


 玉川通り(国道246号)と山手通り(都道317号)の交差点である。


 山手通りを横断し今度は登り坂である。


玉川通り(国道246号)に戻ると、分岐した首都高が頭上を覆っており、立体的で都会らしい重々しさがある。
19道標


(34)氷川神社
(35)道標


(34)氷川神社


 氷川神社の入口に大山道の道標があった。【正面】には「大山道、せたがや道、玉川通」と書かれている。


【右】には「ひろう、めぐろ、池がみ、品川みち」と書かれている。「ひろう」は広尾のことか?


【左】には「青山、あざぶみち」と書かれている。
20氷川神社


(34)氷川神社


(34)氷川神社


 上目黒氷川神社の入口。


 こんな急勾配の階段を登っていくのだ。



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氷川神社   大橋2-16-21
 祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)を主神とし、天照大御神、菅原道真を合祀しています。旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573ー1592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。
 正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。
 また、石段の下には「武州荏原郡菅刈荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられて大山道の道標があります。大山道は江戸時代、石尊参り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
 境内には、目切坂上(現、上目黒1-8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。
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 階段を登ると拝殿と東屋があった。


 上から見下ろすとこんな感じだ。
21目黒川


(36)大橋交差点
(37)目黒川


(36)大橋交差点
(37)目黒川


 ここが大橋病院入口交差点だ。


 この地図の上から下へ歩いてきた。


 進行方向右側にはご覧のような目黒川緑道が整備されている。


 目黒川にかかるこの橋が大橋だそうだ。


 進行方向左側には目黒川が流れている。春には花見で大賑わいするのだろう。
22旧道と庚申堂


(38)旧道入口
★3:庚申堂
(39)池尻稲荷神社
(40)三宿交差点


(38)旧道入口
★3:庚申堂
(39)池尻稲荷神社
(40)三宿交差点


 (38)の分岐部を左に入れば大山街道の旧道である。


 ゆるやかな旧道カーブが続く道をゆっくりと歩いていく。


 こんなステッカーが貼ってあった。


 コンビニ手前の路地を左折して庚申堂へ寄り道する。


 すると右側に黒住教の建物があった。いろいろな宗教があるのだなぁ。


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黒住教(くろずみきょう)
 黒住教(本部:岡山市)は、江戸時代後期に岡山藩の守護神社今村宮の神職であった黒住宗忠(1780ー1850)が、昇る朝日を拝んで立教なった(1814)神道教団で、江戸末期より”神道の教えの大元”と称えられ、多くの人々から”開運の宗教”として信仰されてきました。黒住教東京大教会所・宗忠神社東京分社は、”心の時代”・”宗教の時代といわれる今日に、一人でも多くの方が本教を通して心身ともに健やかで幸せな人生を過ごしていただくことを念願しています。
 どなたでも自由にお参りください
     黒住教東京大教会所・宗忠神社東京分社
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 帰宅後に調べてみると、天理教、金光教とともに幕末三大新宗教の一つなのだそうだ。


 さらにその先へ進んでいく。


 平成地図の★1庚申堂のところに到着した。


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池尻庚申会
 現在区内で確認されている205体の庚申塔の中、2体がこのお堂に安置されている。1体は延宝8年(1680)の庚申の年。他の1体は次の申(サル)年の元禄5年(1692)の造立となっている。
 この庚申塔は邪鬼をふんづけた姿の青面金剛とその下に三猿を彫った石仏である。この石仏は江戸築城の際、集めた石工に造らせたと云われており江戸時代以降の石仏を特に庚申塔と呼ぶようである。
 庚申信仰は古く平安の世に中国から伝わり時の貴族の間に広がり時代が江戸となり庶民信仰として口づてにそのありがたさが農民の間にも受け入れられ300有余年も連綿と継承されて今日のお祭り行事にまで続いている。
 お祭りは毎年4月15日目黒常円寺の住職により先祖の供養と参拝者の幸せを祈りお経をあげ盛大に行われている。この長い歴史と先人の心を支えてきた庚申様を守護し地元の人々との親睦を深めて次の世代に引き継ぎたいものである。
     平成18年 池尻庚申会
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23池尻稲荷神社


(39)池尻稲荷神社
(40)三宿


(39)池尻稲荷神社
(40)三宿


 江戸大山まいりすごろくの手ぬぐいにも池尻のそばに池尻稲荷神社が描かれている。


 ここが池尻稲荷神社の入口である。この神社は池尻・池沢両村の村人によって建てられ、子育て、火伏せの稲荷として信仰されていた。境内には薬水の井戸があり、大山街道、富士街道の旅人や付近の農村の人々の飲料水に使われていた。薬水と井戸は涸れずの井戸とも呼ばれていた。


 旧大山道と書かれた石碑があった。


 涸れずの井戸の由来が書いてあった。

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涸れずの井戸(かれずのいど)
 この池尻稲荷神社の入口わきに、昔「涸れずの井戸」と呼ばれる井戸がありました。これはどんなに日照りが続いても、涸れることなしに、いつも豊かな水をたたえていたので、こう言われていました。この前の大山道旧道を往き来する旅人や野菜を運ぶ農民ののどをうるおし、まわりの人々に大変尊ばれました。とくに、雨乞いのための大山詣の際には、必ずここに立ち寄ったと言われます。現在も、この水は、境内の中にあり、みなさんにおいしい水を提供しています。
 この像は、江戸後期近くの商店に奉公に来ていた少女が、奉公先の子どもといっしょに、ここに水を汲みに来た際、たぶんついでに「かごめかごめ」の遊びをしたであろう様子を想像してつくったものです。どうぞ、昔の風景を思いうかべてみてください。
     平成元年3月 世田谷区
     せたがや百景(2) 大山道と池尻稲荷  昭和59年10月選定
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 子供たちが「かごめかごめ」で遊んでいる様子だ。




 池尻稲荷神社と拝殿である。またも旅の安全を祈願した。
24三軒茶屋


 ここで大山街道は二手に分かれる。三軒茶屋から用賀までは(1)世田谷通りを通る「上町線」と(2)国道246号線に沿った「新町線」となり、用賀から二子玉川までは(3)行善寺を通る「行善寺線」と(4)慈眼寺を通る「慈眼寺線」である。今回は(2)の新町線と(3)の行善寺線を歩くこととし、(1)と(4)は後日に歩くこととする。


(40)三宿交差点
(41)三軒茶屋駅


(40)三宿交差点
(41)三軒茶屋駅


 旧道をひたすら歩く。


 ここで玉川通り(国道246号)と合流する。


 (40)の三宿交差点だ。


 左側に学校が見えた。昭和女子大学だ。写真を撮ろうとすると警備員の人ににらまれた(ように感じた)ので、この写真だけの撮影としよう。


 徐々に三軒茶屋に近づいてきた。


 斜め左方向に向かうと厚木へ行く。


 玉川通り(国道246号)と世田谷通りと茶沢通りの交差点になっている。


 こちらにも成人式を迎える振り袖姿の女性がいた。誰を待ってるのかな?
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