かめかめ・かめラ
大山街道(赤坂御門ー伊勢原)
(東京都ー神奈川県)
(2019/5/19)

【10 鷺沼ー江田】
(2019/5/19)(記 2020/3/29)

97八幡坂:大山街道4


(1)さぎ沼とうきゅう
(2)みずほ銀行
(3)八幡坂
★11:新有馬交差点
(8)阿弥陀堂
(11)馬頭観音
(12)民家
(13)おなかま保育園
(14)川崎考古学研究所
(15)さくら公園
(17)横浜・川崎市境


★11:新有馬交差点
(17)横浜・川崎市境
 このあたりも昔の大山街道がそのまま残っている部分は少なく、街道の近くの道を歩むことになる。


 (2)のみずほ銀行前を左折する。


 ここからは急な下り坂になる。この坂も(3)八幡坂という。


 このステッカーを見つけるとうれしいし安心する。


 ★11の新有馬交差点を右折する。平成地図では八幡坂下交差点と書いてあるが名前が変わったようである。
98阿弥陀堂:大山街道4


★11:新有馬交差点
(8)阿弥陀堂
(11)馬頭観音
(12)民家
(13)おなかま保育園
(14)川崎考古学研究所
(15)さくら公園
(17)横浜・川崎市境


★11:新有馬交差点
(17)横浜・川崎市境




 ★11の新有馬交差点を右折してすぐ右側に(8)阿弥陀堂がある。


 そして片側二車線、中央分離帯付きの国道246号線に沿って南下する。


 鷺沼二丁目交差点を左折。


 このあたりに馬頭観音があるはずだが探しても見当たらず。


 (12)の民家の建物の向きが旧街道を向いているのだが、この写真ではわかりづらい。


 (13)の保育園の角を右折する。
99皆川園:大山街道4


(13)おなかま保育園
(14)川崎考古学研究所
(15)さくら公園
(17)横浜・川崎市境
(18)四辻
(19)うとう坂
(20)地流れ坂
(21)皆川園


(17)横浜・川崎市境
(18)四辻
(19)うとう坂
(20)地流れ坂
(24)横浜市営地下鉄ブルーライン高架橋
(25)不動滝
(30)庚申堂
(34)高札場  


 ここが(13)おなかま保育園である。


 右折してしばらく直進する。


 右側には(14)川崎考古学研究所という建物がある。


 右手に(15)さくら公園が見えてきたらそこを左折する。


 そして次の交差点を右折する。


 そして次の路地を左折する。宅地造成の影響でまっすぐだった街道が分断されたため、このように右・左折を繰り返して進む。


 ここからは右側の細い道に進む。(17)あたりであり、ここが横浜市と川崎市の市境になっている。




 両側に手入れの行き届いた木々が数多くみられている。


 ここが皆川園である。


 この(18)_四辻を左にカーブしてあゆみが丘の東端を進む。


 住宅地の中を進んでいく。


 こちらが皆川園の正面玄関らしい。


 看板の横には大山街道のステッカーが貼ってあった。
100血流れ坂(うとう坂):大山街道4


(19)うとう坂
(20)地流れ坂
(21)皆川園
(23)牢場_谷
(24)横浜市営地下鉄ブルーライン高架橋


(18)四辻
(19)うとう坂
(20)地流れ坂
(24)横浜市営地下鉄ブルーライン高架橋
(25)不動滝
(30)庚申堂
(34)高札場

 血流れ坂(別名がうとう坂らしい)に入る。坂の名前には諸説あるのかな(笑)。(19)から(20)のあたりである。昔は刑場があり、宅地造成中に人骨がたくさん出てきたのでこの名前になったそうだ。


 下り坂の入口にさしかかる。


 (20)を右折する。


 さらに下っていく。


 まだ下る。


 日吉元石川線との交差点に着いた。
101日吉元石川線:大山街道4


(23)牢場谷
(24)横浜市営地下鉄ブルーライン高架橋


(24)横浜市営地下鉄ブルーライン高架橋
(25)不動滝
(30)庚申堂
(34)高札場


 ここを直進したいのだが、日吉元石川線はここでは渡れない。


 右折してすぐのあゆみが丘交差点で向こう側にわたる。


 もとの場所にもどってきて街道歩きを続ける。
102横浜市営地下鉄ブルーライン:大山街道4


(23)牢場谷
(24)横浜市営地下鉄ブルーライン高架橋


(24)横浜市営地下鉄ブルーライン高架橋
(25)不動滝
(30)庚申堂
(34)高札場


 旧道カーブに沿って進む。このあたりは(23)牢場谷という地名がついている。


 さらに下り坂になる。


 そして平になってきた。


 (24)の場所に来た。上を通るのは市営地下鉄ブルーラインである。地下鉄であるがこの区間は高架を通っている。
103不動滝:大山街道4


(25)不動滝
(28)鍛治橋
(29)一里榎跡
(30)庚申堂
(33)常夜灯
(34)高札場


(25)不動滝
(30)庚申堂
(34)高札場


 住宅地をまっすぐに進む。


 左側には戸建てが並んでいるが、崖を利用しており道路側に駐車場があり、その上に民家が建っている。駐車場にはこのように調整池があり洪水や氾濫を予防しているという。


 ここにも大山街道ステッカーがあった。


 しばらく進むと左手に(25)不動滝が見えてきた。住宅地の中にあるとは思えないシチュエーションである。



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霊泉の滝
 滝不動尊は、まことに霊験あらたかです。
 此の地域に雨の降らない時雨乞いすると必ず降りました。昔から喘息・百日咳・風邪ひきなどお水を戴きながらお願いすると必ず治癒しました。滝壺等汚さないでください。
 老馬鍛冶山不動尊  堂主
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 ご参拝ご苦労さまです。霊泉のお水利用なされる皆様、近代食生活の向上に伴い、体質の弱体化もありますので、お持ち帰りになって一回わかしてからご利用ください。
諸道具等の洗浄・動植物放流禁止致します。
 老馬鍛冶山不動尊管理者
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なかなか親切な看板である。


 ここが滝不動尊(不動滝)である。
104早渕川:大山街道4


(28)鍛治橋
(29)一里榎跡
(30)庚申堂
(33)常夜灯
(34)高札場


(30)庚申堂
(34)高札場


 不動滝を出てまた歩く。


 早渕川にぶつかる。昔はここに橋があり、川を越えてから左に向かっていたが、今ではここに橋はない。


 そのため早渕川左岸に沿って歩いていく。




 鯉や亀がのんびりと遊んでいる。


 (28)鍛治橋で早渕川を渡る。


 鍛治橋から早渕川を望む。
105庚申堂:大山街道4


(29)一里榎跡
(30)庚申堂
(33)常夜灯
(34)高札場


(30)庚申堂
(34)高札場


 (28)鍛治橋を渡ってすぐに左折する。




 この右手の建物がある場所に(29)一里榎があったらしい。


 (30)庚申堂があった。

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「いわれ(由来)
 この庚申塔は、その昔寛政5年(西暦1793年)徳川時代中期に荏田村下宿の婦人達によって建てられたもので当時盛んだった庶民信仰の一つに疫病、厄払いの為60日ごとの庚申の日に講中の人(女)が集まって眠らずに祈願し、一夜を過ごす風習があったそうです。
 ここは昔栄えた大山街道の道筋で江戸を発った旅人の1日目の宿場の入口でもあり道標としても親しまれてきました。又、交通安全、幼童安穏の神としても知られ遠方から訪れる人もあります。本年下宿講中の仲間が集まり昔を偲び心のよすがにもと古びた祠を改築いたしました。
平成6年11月 下宿庚申講」
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 そして広い道にでる。


 右側にはJAがあった。
106江田宿:大山街道4


(33)常夜灯
(34)高札場


(34)高札場


 JAの近くには大山街道荏田宿と書かれた案内図があった。





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「大山街道 荏田宿
 大山街道(矢倉沢往還)は、現在の東京赤坂を起点として青山から渋谷、三軒茶屋、多摩川を渡り、二子の渡しで、溝口から荏田、長津田から座間、厚木を経て伊勢原経由のち、矢倉沢関所を経て大山阿夫利神社の参拝に行かれていました。
 江戸中期より、江戸庶民の大山詣で(別名雨乞い)のため利用し、盛んに往来されていたそうです。また、相模地方の産物を江戸に運ぶ重要な街道にもなっていたとの事です。
 荏田宿は、江戸を発った旅人が一晩目の宿として賑わった宿場町でした。現在では建物様式も変わりましたが、今でもこの旧宿場に住まい、屋号を残している家も多々あります。時代により屋号や、職業も多少変わっていった様で、兼業農家の家も多くありました。
 茶色の屋根色は、今も家人が住まい又は、営業しています。」
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107常夜灯:大山街道4


(33)常夜灯
(34)高札場


(33)常夜灯
(34)高札場
(37)庚申供養塔
(38)地蔵堂


 さらに歩みを進める。


 ここを左折すれば(31)真福寺へ向かうが、真福寺には寄り道しない。


 左側に(33)常夜灯が見えてきた。民家の庭の中にある。



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「横浜市地域史跡  荏田宿常夜灯  平成元年12月25日登録
 県北を通る公道矢倉沢往還(大山街道)は、東海道の裏道にあたり、大山参詣の信仰の道でもありました。荏田は長津田とともに、江戸初期から宿駅に指定されていました。当時の宿の繁栄を語るものとして常夜燈が残されています。
 総高 230cm。中台に「秋葉山」、竿に「常夜燈」と刻まれ、文久元年(1861年)に建立されました。秋葉講の案内宿に建てられたもので、宿中を初めとして、神奈川宿・市ケ尾村などからも寄付をあおぎました。
   平成2年3月    横浜市教育委員会」
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108小黒谷:大山街道4


(34)高札場
(35)荏田城址
(36)小黒谷
(37)庚申供養塔
(38)地蔵堂


(34)高札場
(37)庚申供養塔
(38)地蔵堂


 国道246号線を横切り、荏田交差点を直進する。


 その先のセブンイレブンのある交差点に(34)高札場があった。ここを左折する。


 そして直進する。


 布引橋を渡る。


 (36)小黒谷を進む。


 右側には(35)荏田城址が見えている。


 このあたりは急傾斜地になっており崩壊危険地帯らしい。


 しばらくすると国道246号線と合流する。


 合流地点に大山街道ステッカーを発見する。


 その近くに横山医院の看板があった。

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「社会福祉法人 福田会の委託による 里親斡旋の地 横山医院」
イ、明治維新により四民平等・秩録処分(武士の棒給の支拂停止)
ロ、明治29年(1896)三陸の大地震・大津波
ハ、明治39年(1906)東北地方の大飢饉
 イ、ロ、ハ等により多くの孤児・捨子・身売りなど貧困無告の子供達が生じた。明治9年佛教会は宗派をこえて(臨済・天台・真言・日蓮・浄土・時宗)棄児救済のため福田会を結成する。後、育児院を1879年(明治12年)設立する。
 横山医院初代院長横山三省(1835ー1916)は、明治37年より福田会の委託を受け、乳呑み児・幼児を地元の母乳の溢乳する産後の主婦に_養親として、これらの子供達の養育を斡旋した。
[養親の住居]は
都筑郡山内村(元石川・荏田)、中川村(中川・大棚・茅ヶ崎・牛久保)、中里村(市ケ尾・鉄)、都田村(池辺・東方)
橘樹郡宮前村(宮前・馬絹)、柿生村(柿生・王禅寺)であった。
 里親には毎月里扶持(養育費)と盆・暮には皇后陛下より着物・反物・お菓子が下賜された。
 里子の出身地は北海道から沖縄まで日本全国と朝鮮であり総数595名に及ぶ子供達は5歳になると福田会にかえり小学校に入学、卒業後は職を身につけたり奉公に出たりしている。
 里子の中には養親に気に入られ養家に残り成人し一家をささえた者10数人に及ぶ(里流れと言う)。
 福田会は、現在東京渋谷区広尾で社会福祉法人として児童養護施設・福祉型障害児入所施設・老人ホーム等を運営している。
 この事業は昭和20年(1945)敗戦のため里扶持が途絶えるまで41年間続いた。この斡旋を担ったのは横山医院初代院長 横山三省、三代院長 横山謙次郎、四代院長 横山巌である。
    平成27年10月吉日  横山博  記す。」

写真は「明治41年皇后陛下より御下賜品を受け取るために横山医院に集まった里親・里子達。」
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 横山医院の方々は社会福祉法人のひな型として里親などの斡旋をしていたのですね。素晴らしいです。
109庚申供養塔:大山街道4


(37)庚申供養塔
(38)地蔵堂


(37)庚申供養塔
(38)地蔵堂


 城南信用金庫の前を通る。


 (37)の場所を右折する。




 草むらの中に庚申供養塔を発見する。これ以上近づけず。


 気を取り直して先に進む。


 旧道カーブの先の右側には竹林が見える。


 東名高速道路の高架の下をくぐる。


 荏田三丁目入口交差点を直進する。
110地蔵堂:大山街道4


(38)地蔵堂


(38)地蔵堂


 正面に東急田園都市線の高架が見える。


 その手前に(38)地蔵堂があった。


 そして田園都市線をくぐる。


 くぐると右側には東急ストアがあった。


 ここを左に曲がり、江田駅の西口に出る。




 細い路地を曲がると小さなガードになっている。


 坂を少し登る。


 国道246号線と合流する。
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