かめかめ・かめラ
大山街道(赤坂御門ー伊勢原)
(東京都ー神奈川県)
(2019/1/14)
【3 三軒茶屋ー桜新町(新町線)】
(2019/1/14)(記 2020/3/29)
25道標
(3)道標
(3)道標
明治地図にも玉川通りと世田谷通りは描かれている。茶沢通りはまだなかったのだろう。
世田谷通りは都道3号線だ。
分かれ道の場所に道標があった。立派な道標だ。
【正面】には「左相州通、大山道」と書いてある。
【左側面】には「右富士、世田谷、登戸道」と読める。
【右側面】には「此方、二子通」となっている。
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道標
銘文
(正面)左相州通、大山道
(左側面)右富士、世田谷、登戸道
(背面)天下太平国土安穏 寛延2年(巳巳)建立 以下略
(右側面)此方、二子通
年代
寛延2年(1749)、文化9年(1812)再建
伝来
大山道は、矢倉沢往還の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期_ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分れ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。
大山は、古い民俗信仰である石尊信仰と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は江戸町人などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。
この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピック(注:1964年のもの)の道路拡張などにより点々と移されたが、昭和58年5月に三軒茶屋町会結成50周年記念事業の一つとして、元の位置近くに複された。
備考
一、この道標は、本来は渋谷方面に向いて建てられていた。
一、相州通・二子通は、ほぼ現在の玉川通りである。
一、富士・世田谷道・登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。
昭和59年3月 世田谷区教育委員会
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都市開発の中で、埋もれないでよく残っていたものだなぁ。
手ぬぐいのこの道標のことなんですね。
エコー仲見世など路地裏の商店街もあり、個人的には好きな街だ。
三軒茶屋は、江戸時代に大山街道が世田谷上町へ向かう大山道(上町線)・登戸道と、新町方面に向かう大山道(新町線)とに分離する三差路に、三軒の茶屋(田中屋、信楽(石橋楼)、角屋)があったことから名づけられた。
26中華そば瀧井
そろそろお腹が空いてきた。スマホアプリのラーメンマップで近くのラーメン屋さんを検索する。表通りに面しているよりも路地裏のお店にしよう。そして中華そば瀧井にやってきた。
カウンターのみのお店。8割くらい席は埋まっている。メニューは、中華そば650、味玉そば720、辛ねぎそば700、チャーシューそば900、タンメン780、みそそば680、つけ麺800、大盛り+100、黒焼きめし550など。初の来店なので基本であろう「中華そば650」にしよう。
店内のカウンター席はわずか一席にも空いていた。そこに座る。左隣の二人は麺だけだが、右隣の二人は麺と黒焼きめしのセットを食べていた。他の人たちはわからず。中華そばのビジュアルは美味しそうだ。
細麺だがこのスープにはよく合っている。毎日でも食べられそうなマイルドは味わいである
27伊勢丸稲荷大明神と蛇崩川緑道
(4)中里通り分岐
(5)伊勢丸稲荷大明神
(6)蛇崩川緑道
明治地図ではどこから中里通りかははっきりしない。
三軒茶屋のバス停を過ぎる。
ここが(4)の場所で右が玉川通り、左が中里通りである。もちろん左へ進む。
ゆるやかな旧道カーブが心地よい。
ここが(5)の伊勢丸稲荷大明神。
かなり狭い場所にある。
こちらが(6)の蛇崩川緑道だ。
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蛇崩川(じゃくずれがわ)緑道
この蛇崩川緑道(茶屋下橋ー薄橋)は、公園等の管理協定制度に基づき、地域の皆さんにより清掃活動などの管理活動が行われています。
公園等の管理協定制度は、維持管理活動に意欲のある地域の団体が、世田谷区と協定を結び、区と役割分担をしながら公園等の維持管理活動を行っていく制度です。
利用するみなさんも、公園利用のマナーを守り、楽しく快適に利用できる公園の環境づくりにご協力をお願いします。
(管理協定団体)上馬東町会・世田谷区
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暗渠の上に遊歩道ができている。
28中里通り
(8)中里通り
(9)地蔵尊
明治地図ではこのあたりがわかりにくい。あまり特徴のない道だからだろうか。周囲には楢の文字が多い。楢の林に囲まれていたのだろう。
通りをわたり、さらに中里通りを進む。
中里通りの電柱にはこのステッカーが貼られていた。
右側になんだかおもしそうなお店があった。「ヒダリキキ・バル」って何だ?
近づいてみると下記のごとし。
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ヒダリキキ = お酒大好き
昔の大工さんは右手に「金槌」を、左手に「鑿(のみ)」をもって仕事をされます。
その「鑿(のみ)」と「飲み」をかけた洒落言葉で、左利き=お酒好きとなったようです。
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あぁ、そういうことか。
さらに中里通りを進む。
再び大山街道ステッカー。
旧道カーブが美しい。
ここが(9)の地蔵尊だ。
この先で玉川通りと再合流する。
29宗円寺
(10)上馬交差点
(11)宗円寺
ここらあたりも明治地図でははっきりしない。
上馬交差点に近づいてきた。
ここが上馬交差点だ。
環状七号線がアンダーパスしている。
こちらが宗円寺。
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八幡山 宗円寺(曹洞宗)
開基は心覚宗円大庵主北条左近太郎入道成願で、文保元年(1317)10月23日寂した。
当時は若宮八幡宮の別当寺であった。本尊は釈迦如来坐像、創立当時は小さな草庵であったが、寛永10年(1633)喜山正存和尚が中興した。
境内に木像の「しょうづかの婆様」の小堂がある。江戸時代初期の頃からまつられたもので、疫病よけに霊験あらたかであるといわれている。
昭和54年3月 世田谷区教育委員会
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「しょうづかの婆様」の小堂はおそらくこれであろう。
旭小学校発祥の地の石碑もあった。昔はお寺で寺子屋があり、それが発展して小学校になったのだろうかと推測する。
30庚申堂
(12)駒沢大学駅前交差点
(13)庚申堂
(14)新町一丁目交差点
(13)庚申堂
(14)新町一丁目交差点
明治地図でははっきりしないが新町一丁目はこのあたりだろうか。
上馬バス停を過ぎる。
真中(駒沢大学駅前)交差点を直進する。
駒沢交差点もそのまま進む。
(13)のところに庚申堂があった。
31善養院
(14)新町一丁目交差点
(16)善養院
★4:久富稲荷神社
(14)新町一丁目交差点
★4:久富稲荷神社
明治地図では善養院の場所はわかならかった。そのかわり★4には久富稲荷神社が描かれている。
ここが新町一丁目交差点だ。ここを右斜めへ進む。
そして城南信金の前を左折すると善養院がある。
山門と本堂があった。逆光だったので写真が暗い。
32桜神宮
★5「神習教本祠」というのが桜神宮のようだ。
明治地図では神社記号も見当たらない。
ゆるやかな旧道カーブに沿って歩いていく。
右側に桜神宮という大きな神社があった。
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古式神道本宮 桜神宮
創建
勤皇の志士として梁川星厳、西郷隆盛、伊藤博文らと深く親交のあった大中臣65代の後裔で伊勢皇大神宮筆頭禰宜・神宮支庁東京出張所(現在の東京大神宮)所長であった芳村_正もちが神代より脈々と受け継がれる古式神道を蘇らせるため明治15年5月15日、明治天皇の勅許により教派神道13派の1派特立を果たす。名称も神宮奉職中の荒祭宮で神託によって授かった「神習いの教」とした。以来、当宮は古式神道を受け継ぐ大神の宮として、また教えの本山として親しまれる。
(後略)
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拝殿も立派だ。
数多くの絵馬も納められている。
33桜新町
平成地図の左上に桜新町駅が見える。「東急新玉川線」となっているが、渋谷ー二子玉川園(現二子玉川)は2000年(平成12年)8月に新玉川線から田園都市線となり、渋谷ー中央林間までがすべて東急田園都市線となった。それ以前の編集の地図であろう。
(17)このあたりが桜新町駅であろう。
桜神宮から西へ向かい桜新町駅を目指す。
この地図の左側から歩いてきて、桜新町駅の南口へ着いた。(この写真は後ほど撮影したもの)
そして三井住友銀行の手前を左折するとそこはサザエさん通りである。作者の長谷川町子が居住していたためのネーミングである。この先には長谷川町子美術館もある。
西口近くにはご覧のような登場人物像があり、花でできたサザエさんの顔型もあった。
今日は桜新町駅で終了としよう。この西口の階段を下りて駅に向かう。
13時32分の準急でも中央林間到着は同じだが、少しでもいろいろな列車に乗るために13時26分発の各停中央林間行きに乗った。
桜新町1326ー1343鷺沼 中央林間行き
鷺沼1345ー1405中央林間 準急中央林間行き
中央林間1409ー1414相模大野 相模大野行き
相模大野1417ー1437伊勢原 快速急行小田原行き
【1 赤坂ー青山】
【2 渋谷ー三軒茶屋】
【3 三軒茶屋ー桜新町(新町線)】
【4 桜新町ー二子(行善寺線)】
【5 二子ー溝の口】
【6 三軒茶屋ー松陰神社(上町線)】
【7 松陰神社ー二子(慈眼寺線)】
【8 溝の口ー宮崎台】
【9 宮崎台ー鷺沼】
【10 鷺沼ー江田】
【11 江田ー青葉台】