かめかめ・かめラ
大山街道(赤坂御門ー伊勢原)
(東京都ー神奈川県)
(2019/1/14)
【6 三軒茶屋ー松陰神社(上町線)】
(2019/3/21)(記 2020/3/29)
57しぶそば
大山街道第三弾は2019年3月21日。三軒茶屋からスタートする。まずは小田急線で中央林間へ。朝食を食べていなかったのでしぶそばに寄る。しぶそばは初めてである。
東急田園都市線中央林間駅構内にある。改札外からの入口もあった。
今日はコロッケうどんにしてみよう。それにしても、男女二人の店員さんがいるが二人の口からは私語が飛びかっている。お客さんは私以外に二人。三人もお客がいるのだからもう少し慎んだらどうかなぁと思う。
私語を話しながらも身体は少しは動いているのでコロッケうどんが出てきた。
コロッケはじゃがいもの香りのするもの。箱根そばのカレー味がするコロッケとはちょっと違った。
伊勢原0801→0819相模大野 小田急小田原線 急行新宿行き
相模大野0821→0824中央林間 小田急江ノ島線 快速急行片瀬江ノ島行き
58三軒茶屋
中央林間駅から急行押上行きに乗る。
34分で三軒茶屋駅に着いた。世田谷通り出口へ向かう。
出口の脇には、先日も見た大きな道標が鎮座している。
先日の「エコー仲見世」や、この「すずらん通」など私にとって魅惑的な路地が多い。
キャロットタワーを右手に見ながら世田谷通りを歩き始める。
中央林間0838→0912三軒茶屋 東急田園都市線 急行押上行き
59世田谷通り
三軒茶屋から二子玉川までの大山街道は二通りある。すでに歩いたものは「新町・行善寺線」という比較的新しい街道だった。今日は「上町・慈眼寺線」といういわば旧道を歩いてみる。
三軒茶屋駅から世田谷通りを西に向かう。
明治地図では(3)三軒茶屋駅から赤の破線を西に向かう。三軒茶屋駅付近に民家が多いのがわかる。
アーケードが続いている。
日曜日の朝だが車が多い。
交差点に着いた。
太子堂四丁目交差点だ。地図の★1の場所だ。
次の交差点は保健センター入口。地図の★2の場所だ。
60若林交差点
(1)若林交差点
(1)若林交差点
大山街道と環状七号線の交差点が若林交差点である。
激安の殿堂ドン・キホーテもあった。
環七通りは英語では「Kan nana dori Ave」と言うのか。わかりにくいように思う。
環七の大森方面を望む。
61駒留八幡宮
(2)駒留八幡宮
(2)駒留八幡宮
明治地図にも神社の記号がある。
鳥居をくぐって参拝する。
上馬の駒留八幡神社はせたがや百景に選定されている。
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駒留八幡神社(若宮八幡)
祭神は天照大神、応神天皇。北条左近太郎入道成願は、当時この地の領主で、あつく八幡大神を崇敬し、徳治三年(1308)社殿を造営し、経筒を納め駒留八幡とあがめたてまつった。その後世田谷城主吉良頼康は、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称した。また、その母常盤を弁財天として祀ったのが、厳島神社である。
昭和53年3月 世田谷区教育委員会
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ここで出てくる厳島神社は安芸の宮島のことなのかな。全国各地に厳島神社があるのでどこの厳島神社かはよくわからない。
こちらが本堂。
世田谷区の名木百選に選定されている「クロマツ」である。すっとしており佇まいがよい。
62蛇崩川緑道&北原白秋住居跡
(3)蛇崩川緑道
明治地図では蛇崩川はわかりにくい。
平成地図の(3)蛇崩川緑道の場所にはこのような緑道が続いていた。昔は駒留橋があったのだろう。
世田谷通りに戻り、若林交差点から歩みを進める。上馬五丁目に歩道橋があった。
しばらくいくと右側に看板が。北原白秋住居跡(★3)と書かれている。
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北原白秋住居跡
歌人・詩人・童謡作家であった北原白秋は、その生涯57年のうち、44歳から55歳までの12年間、世田谷区内に在住していた。
此の処若林3丁目15番に昭和3年4月、旧馬込町(大田区)から移転してきた。区内最初の住所地で、「世田谷風塵抄」と題する一連の短歌を詠んでいる。
霾(つちふ)らし 嵐吹き立つ 春さきは 代々木野かけて 朱(あけ)の風空
風面(かざおもて) 朱(あけ)に吹き立つ 春真昼 ゑぐき埃(ほこり)に 食(じき)いとふなり
木●(もっこく)の しづけき空へ ちりかけて 桜はしろし 光る花びら
風たまゆら 土しづけき 花びらの ひとつ舞ひ立ち はらら皆立つ
彼は、昭和6年初夏、今の砧6丁目13番(旧大蔵の西山野)に、次いで昭和11年1月、今の成城1丁目32番に移転、翌12年11月、眼底出血をおこし、昭和15年4月、杉並区阿佐ヶ谷に転居、同17年11月2日逝去した。
昭和60年2月 白秋生誕百年を記念して 世田谷区教育委員会
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63松陰神社通り商店街
★1 松陰神社入口交差点
★1 松陰神社入口交差点
松陰神社入口交差点を右折し松陰神社に寄り道する。
松陰神社通り商店街に入るとすぐ右側に商店街の案内図とともに松陰神社の言われがあった。
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吉田松陰と世田谷松陰神社
長州藩の志士吉田松陰が幕府の弾圧「安政の大獄」に連座し、江戸伝馬町獄で処刑されたのは、安政6年(1859)10月27日のことでした。松陰は死に際し、
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
と詠みました。自分の肉体は亡んでも、志だけはこの世に留めておくのだという決意を込め、30歳の若さで散ったのです。
松陰の志を継いだ高杉晋作や久坂玄瑞等の門下生たちは、尊王攘夷を唱え、ついに二百数十年続いた幕府を倒し、維新の大業を成し遂げました。
松陰の遺骸は最初、千住小塚原に罪人として埋められましたが、文久3年(1863)1月、高杉ら門下生の手で、長州藩の所有地だったここ世田谷若林に丁重に改葬され、その後明治15年(1882)、松陰神社が建立され現在にいたっています。
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狭い通りの商店街を進む。
近くにある国士舘高校が平成最後の春の甲子園(第91回選抜高校野球大会)に出場した(結果は1回戦で明石商に1対7で敗れた)。
64松陰神社前駅
東急世田谷線の松陰神社前駅がある。
明治地図でははっきりしない。
駅の隣の踏切である。
松陰神社駅と山下(豪徳寺)方面を望む。
三軒茶屋方面を望む。
駅へは通りから直接入ることができる。
商店街の幟。「元気でやさしい松陰神社通り商店街 段差のないやさしい道路でお買物」と書かれている。高齢社会なので「段差がない」のは重要だ。
このような雰囲気の中をしばし進む。
65松陰神社1
(5)松陰神社
(5)松蔭神社と思われる場所。明治15年の創建なので地図には間に合わなかったと思われる。
5分ほど歩いて松陰神社に着いた。
鳥居の手前に説明書きがあった。
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松陰神社
ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰先生)
松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。その4年後の文久3年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。
明治15年(1882)11月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。
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昔の鳥居柱の一部が保存されていた。説明書きがあった。
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松陰神社 旧鳥居柱
松陰先生50年祭(明治41年)の際に建造された松陰神社旧鳥居柱の一部(社殿向かって右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座含め総重量約20トン程であった。平成23年10月の新鳥居建造にあたり解体。その一部を保存した。「明治41年10月50年祭典」の刻字は社殿向かって左の柱にあったものを保存の際に写し刻字したもの。
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このピンクの花はなんだろう。花桃かな?
吉田松陰像があった。
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吉田松陰先生像
(鋳造:平成25年ブロンズ)
明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰像(石膏 松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。
松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。
※大熊氏廣(安政3年(1856)ー昭和9年(1934))
明治9年工学美術学校に入学し、教授として来日していたイタリア人彫刻家ラグーザに師事、明治15年首席で卒業。明治21ー22年滞欧しファルギエール、モンテベルデ等に師事。日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社の大村益次郎像が有名。
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吉田松陰のお墓があるので寄ってみる。
こちらがお墓である。吉田松陰だけのお墓ではないようだ。説明_書きがあった。
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吉田松陰先生他烈士墓所
文久3年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年11月、福原乙之進を埋葬した。
禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓が破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、さらに綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。
明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治37年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治42年、遺言により野村靖を埋葬。明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。
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多くの人々に慕われていたのだなぁ。
66松陰神社2
こちらが本殿である。
本殿の右側には松下村塾がある。本物は萩にあるがそれを模して建てられている。
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松下村塾
松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引き継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。
松陰先生は嘉永5年(1852)23歳の時は半年ほど、安政2年(1855)26歳の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月まで、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築が行われました。松陰先生が名実ともに公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29歳の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5か月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施したの年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄随、高杉晋作、野村靖、山県有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。
本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。
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松下村塾での教育
松下村塾聯(松下村塾の床の間に掲げられていた言葉)
万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん。
一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。
大意:多くの書物を読まずに、どうして将来語り継がれるような人になりえるだろうか。
自分の労苦をいとう者にどうして人々の安らかな生活を築くことができようか。決してできない。
萩の松本村にあったということで松下村塾と名付けられれ1856年8月頃から1858年末までの2年半ほどの期間、松陰先生は塾生に教育を施しました。
教育の目的は、
「君臣の義」(君主と臣下の間で守るべき正しい道)
「華夷の弁」(日本と外国との違いを明確にすること)
「奇傑非常な人」(人並み外れた優秀な人材)
を育むことでした。身分に関係なく誰でも入塾でき、先生は塾生それぞれをよく観察、記録し、そこで気付いた大切なことは手紙にして渡しました。先生が手を加えて正していく教育ではなく、自分で気づかせ、個性を生かす心の通い合う教育でした。塾で学んだ塾生は総勢90名前後と言われており、彼らの活躍あって現在の日本があるのです。
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この奥の部屋で教育がされていたのであろう。
右横には塾長室があった。
ここにも吉田松陰像があった。
松陰先生50年祭および100年祭の記念碑があった。
帰りに松陰神社前駅の手前で東急世田谷線の車両に遭遇。かわいらしい電車である。今日は鉄道旅ではないので、先を急ぐ。
【1 赤坂ー青山】
【2 渋谷ー三軒茶屋】
【3 三軒茶屋ー桜新町(新町線)】
【4 桜新町ー二子(行善寺線)】
【5 二子ー溝の口】
【6 三軒茶屋ー松陰神社(上町線)】
【7 松陰神社ー二子(慈眼寺線)】
【8 溝の口ー宮崎台】
【9 宮崎台ー鷺沼】
【10 鷺沼ー江田】
【11 江田ー青葉台】