かめかめ・かめラ
大山街道(赤坂御門ー伊勢原)
(東京都ー神奈川県)
(2020/1/5)

【17 海老名〜本厚木】
(2020/1/5)(記 2020/5/31)

182海老名へ


 大山街道第七弾は2020年1月5日。 朝早くから大山行きのバス乗り場には長い行列があった。


 今日も伊勢原駅から出発である。


 7時38分発の電車で海老名へ。


 12分で海老名に到着。


 駅ナカの箱根そばで朝食。


 コロッケうどん430を食す。


 カレー味のコロッケがうどんとよく合う。


 改札を出る。


 ペデストリアンデッキを通って大山街道歩きがスタートする。

伊勢原0738ー0750海老名
183海老名跨線橋


 (34)跨線橋


 おそらく赤丸のあたりが跨線橋。


 海老名駅入口交差点から旅を続ける。


 跨線橋が見えてきた。


 歩行者は途中から坂道を登る。


 タワーマンションの建設が行われている。


 正面を見ると大山がくっきりと顔をだす。


 跨線橋の右には小田急の海老名車両基地が見える。


 ここで跨線橋を別れ一般道を歩く。
184一大縄


 (31)一大縄、(35)踏切


 赤丸は一大縄の場所。


 大山街道に戻る。


 海老名市立図書館の前に「いちおおなわ」と書いてある。一大縄とは国分宿から河原口交差点までの約2Hの一直線の道のことである。中世の条里制の名残で東西の基準線がこの一大縄ということである。


 市立図書館前交差点を直進する。


 次の市立図書館西側交差点も直進する。


 JR相模線の踏切がある。


 ここが河原口交差点。大山が見えている。
185二又の交差点


 (36)二又の交差点。青い実線は圏央道。


 明治地図では赤矢印の場所。


 河原口交差点からさらに進む。


 ここが二又の交差点。そのまま直進する。


 コンビニではなくコインランドリーに変わっていた。


 コインランドリーの角を左折する。


 しばらく直進し、


 この角を右折する。
186庚申塔


青い実線は圏央道。




 右折すると正面に大山がみえる。


 そしてここは直進。


 左手には歴史資料収蔵館がある。


  そして案内板があった。

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江戸・国分 大山道 厚木・大山
 河原口村を通る大山道は、曲がり角が多いために「七曲」と言われていました。この先で南北に通る「八王子道」と合流します。二本の道が出会う付近には、かつて蕎麦屋がありました。この先、「厚木の渡し」で相模川を越し、厚木宿、大山へと続いていきます。
 江戸時代に「游相日記」を著わした三州田原藩士「渡辺崋山」は天保2(1831)年にこの大山道をたどり、厚木宿の旅籠「万年屋」に宿泊し、渡しの風景画(厚木六勝図の一つ)や、まちの様子をたくさん描き残しています。
 また、徳川家康は、中原(平塚市)への鷹狩の帰路、「厚木の渡し」を渡り、隣村の中新田村に居を構えていた、かつての老臣「高水主水助清秀」を訪ね時服や雁等を下賜したと伝えられています。
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 ここを左折。


 児童館と書いてあるが、おひさまクラブとなっていた。


 その先には庚申塔があった。
187七曲


 二又の交差点からこの先までを七曲という。青い実線は圏央道。




 ここを右折。


 この先を左折。


 圏央道の下には大山がきれいに見える。


 さらに進む。


 昔の街道沿いには和菓子屋が多い。ここは和菓子司二葉である。


 となりは表具店。これも街道沿いによくある。


 ここを右折。


 大山が雄大に見える。
188圏央道


 青い実線が圏央道。


 明治地図では赤丸の場所であろう。


 圏央道の海老名・茅ヶ崎方面。


 圏央道の相模原・八王子方面。


 素晴らしい大山! しかし平成地図に書いてある道標は見当たらなかった。圏央道の工事の影響かもしれない。
189河原


 (37)厚木の渡し場。青い実線は圏央道。


 赤丸が渡し場だろう。


 河川敷も河川を広げる工事中であり、以前の面影がない。(37)への道も消えている。


 河原から北側を見る。


 河原から南側を見る。アーチはあゆみ橋。


 大山が間近に見える。
190庚申塔・道祖神


 (36)二又の交差点の北側の庚申塔。青い実線は圏央道。


 明治地図では赤矢印の場所となる。


 まず(36)の近くのコインランドリーの裏へ戻り、先ほどは左折した場所を今度は右折する。


 この角にも石塔がある。


 右折してまっすぐ進む。


 右に曲がると有鹿幼稚園という案内板の下に庚申塔と道祖神が見えている。


 二基あり、左側には「寛政6年 石工信州高遠産秋山甚四郎 相州高座郡川原口邑 催主中野源六」とある。


 こちらには「松尾大明神」とある。
191総持院


 (42)総持院。青い実線は圏央道。


 明治地図にも寺記号と総持院と記載がある。


 山門を入ると、


 左手にお地蔵さんがあり、


 立派な本堂があった。


 総持院の反対側には有鹿小学校がある。
192有鹿神社


 (39)有鹿神社。青い実線は圏央道。


 明治地図にも神社記号と有鹿社(祀)と記載されている。


 海老名総鎮守 有鹿神社とある。


 「相模国十三座内 有鹿神社」とか「郷社 有鹿神社」という石碑があり、由緒正しい神社のようだ。


 こちらが拝殿。


 こちらが社務所である。
193海老名氏霊堂


 海老名氏霊堂。青い実線は圏央道。


 おそらく赤丸のあたりだろう。


 庚申塔と道祖神のあった場所に戻り、ここを右折する。


 右側に建売の住宅が数軒ならんでおり、大山が正面に見えている。


 右手には野菜の無人販売所がある。


 ここが有鹿幼稚園。


 やっと海老名氏墳墓入口の石碑があった。


 右折してここを進む。


 ここが霊堂である。


 説明文があった。

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海老名氏霊堂
 海老名氏は、村上源氏の流れをくむ武蔵横山党の一派で、平安時代の12世紀頃には海老名の地に進出して来ていたと考えられています。
 中でも海老名源八季貞は保元の乱で奮戦し、曽我物語などにもその名が出てくるなど有名な武士です。 海老名氏の菩提寺は、現在は廃寺となっている宝樹寺と伝えられ、その跡地が霊堂のあるこの周辺一帯と考えられています。堂内には、海老名氏縁のものと伝わっている宝篋印塔や五輪塔が安置されています。
 霊堂周囲にある河原口坊中遺跡からは、12〜14世紀の建物跡やかわらけなどの遺物が多く出土し、宝樹寺の存在と合わせてこの辺り一帯が海老名氏の本拠地であったと考えられています。
  海老名市教育員会
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 霊堂内の様子。
194宗珪寺移転


 (43)宗珪寺。青い実線は圏央道。


 明治地図にも寺記号とともに宗珪寺と記載されている。


 ここを右折すれば正面に宗珪寺があるであろう。


 もう少し進んでみる。


 工事中になっており、これ以上は進めない。(帰宅後にネットで調べてみると、圏央道の工事のために移転したようである。)


 もう一度、ここまで戻って、相模川の河原に行ってみる。


 細い道が続いていて矢印がでている。


 工事中の中を進むようだ。


 河原からは大山の雄姿が見える。
195相模大橋


 相模大橋


 明治地図にはあるわけない。おそらく赤い実線のあたりであろう。


 二又の交差点に戻り、南下するように歩みを進める。


 さらに歩く。


 逆光で見にくいが、ここがあゆみ橋入口交差点である。右折すればあゆみ橋だが、まっすぐ進む。


 ここが相模大橋東交差点。ここを右折する。


 圏央道をアンダークロスする。


 相模大橋に入る。ここから厚木市である。


 大山とあゆみ橋が見えている。


 進行方向左には、小田急線の相模川橋梁が見えている。


 右にはあゆみ橋がみえる。
196東町商店会


 (46)東町商店会


 おそらく赤丸のあたり。


 相模大橋を渡り切った。


 この東町郵便局前交差点を右折する。後ほどここにはまた戻ってくる。


 東町商店会に入った。左手には和菓子屋の菊屋政房。なんと創業天明元(1781)年である。街道沿いの和菓子屋、おそるべし。


 シャッターにいろいろな絵が描かれている。これは「だんご」と「御休所」だ。


 こちらはけやき薬局で、「薬種」「薬局方」など。


 ここはあゆみ橋西入口交差点。右折すればあゆみ橋だが、直進する。


 島崎金物店。シャッターの絵がみにくい。


 こちらは「うなぎ」。昔は天然物かなぁ。


 石村集文堂・栄光堂。「本」「草双紙」など。


 履物 松元。「本履物」とある。


 「紳士用品 林屋」となっている。


 「庭球屋」「張り屋」。


 タオルの伊予忠。今治タオルかな?


 「せともの」


 交差点を直進する。


 その先にも「おだんご」「まんじゅう」とある。なかなか楽しい。
197厚木の渡し・渡辺崋山来遊記念碑


 (44)渡辺崋山来遊記念碑、(45)厚木の渡し


 明治地図では赤丸あたりだろう。


 厚木の渡しと渡辺崋山来遊記念碑の全景である。


 案内板があった。

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厚木市指定史跡 厚木村渡船場跡
    昭和36年10月21日指定
 この地は、矢倉沢往還や藤沢道、八王子道が相模川を渡る渡船場で、常時5艘の舟が備えられ、旅人に利用されていました。
 江戸時代に刊行された「新編相模国風土記稿」の記述によると、冬の渇水期には土橋が設けられていました。
 この渡船場の厚木側の権利は、厚木村と溝呂木家が持っていました。溝呂木家の権利は、徳川家康から与えられたものと伝えられています。
 天保2年(1831)9月、矢倉沢往還を通って厚木を訪れた渡辺崋山は「厚木六勝」図を残していますが、その一つ「仮屋喚渡」は、この場所を描いたものです。
 明治41年(1908)、相模橋の開通によって、この渡船場は廃止され、その役目を終えました。
 平成3年3月
 平成21年3月再調   厚木市教育委員会
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 すごろく手ぬぐいにも厚木の渡しが描かれている。


 これが、渡辺崋山来遊記念碑である。


こちらは厚木の渡しの石碑。

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相模川をわたるために設けられた渡船場で、海老名市河原口とをむすび、5隻の船で往来していた。
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   相模川がこのように見える。渡し舟が盛んだったころはどんな風景が広がっていたのだろう。


 振り返ると「Nagashima」という床屋が。創業を見てビックリ! なんと1701(元禄14)年! 18世紀最初の年である。街道沿い、おそるべし。
198厚木神社


   (47)厚木神社


 厚木社と書いてあるのかな。


 東町郵便局前交差点に戻ってきた。今度はここを直進する。


 ここが東町郵便局。


 しばらく歩くと左側に厚木神社があった。


 拝殿がある。


 二つの柱が並んでいる。


 関東大震災の恐ろしさを後世に伝えるためということで、先人は偉い!

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郷土の歴史

右の石柱
 文政11年戌子夏6月に建立され大正12年9月の関東大震災にて崩壊した鳥居の柱に震災の恐ろしさを後世に伝えるための碑とした。 文政11年(西暦1829年)

左の石柱
 明治6年7月30日 厚木神社が郷社に列格奉祝記念碑
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 厚木の渡しの厚木側は昔は「天王町」といったらしいが、「お天王様」と繋がるのかな?

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あつぎお天王様の地
 平安時代より疾病除けの神として牛頭天王が祀られ那須与一も眼病祈願をし、厚木のお天王様として親しまれた。
 夏祭りはお盆とも重なり近郷近在より、田植え後の老若男女が繰りだし露店は見世物小屋も掛かり、人の波で沸き、賑やかさを呈した。
 現在は、厚木神社と称し尊崇されている。
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199渡辺崋山記念碑(万年屋跡)


 (48)渡辺崋山記念碑(万年屋跡)


 おそらく赤丸のあたり。


 厚木神社のそばに「渡辺崋山滞留の地」の石碑がある。「天保2(1831)年9月22日より24日に至る」、「旅籠萬年屋古郡平兵衛の屋敷」。このあたりにあった万年屋に宿泊したようだ。


 現在はここに天王町の名残がある。


 右側には「手打ちそば わしず」というお店がある。


 そして小田急線の高架まで来た。
200旭町


 旭町


 明治地図では赤丸あたりだろう。


 壁にはレトロな広告が並んでいる。


 このお店は「麺や食堂」。その昔は「麺や食堂ブラジル」といった。喫茶店からラーメン店になった。


 しばらく歩くと右側に今度は「本丸亭」。塩ラーメンが有名である。


 そして「せんべい三河屋」さん。


 街道沿いの呉服屋さんも多い。「染めときもの たちばなや」。


 ここが旭町三丁目交差点。


 この角には「俺系らーめん」がある。


 そしてその反対側には「タンメン・餃子の店 厚木ラオシャン」。なんだかラーメン屋さんが多いなぁ。
201本厚木駅


 (49)本厚木駅


 明治地図では矢印の方向に歩いていくことになる。


 幸町交差点を直進。


 本厚木駅南口交差点も直進。


 南口は再開発中である。


 ここが南口の入口。


 本厚木駅11時4分の急行で帰る。


 あっという間に伊勢原に到着した。

本厚木1104ー1111伊勢原
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